演奏について想ふこと

演奏っていうのは不可思議なものだ。多くのミュージシャンがいうように、演奏は会話のようなものだと感じる。楽器を使ったコミュニケーション。

まぁ、楽器をひとりで練習しているのも楽しい。それは、独演会のリハーサルとも言えるし、もしくは会話を想定した練習かもしれない。こんなふうに言われたらこう答える、こんなことを言われたらこう返す、とか…。こうして考えると、程度にもよるが、楽器をひとりで練習しているのって、結構さびしい予定調和かもしらん。カッコイイフィルインばっかり練習するは「君を愛している」「私もよ!」「ブチュ〜...」といった妄想みたいだし正義の味方の必殺技をキメている自分に酔っているようでもある...。まぁ、そんな夢を見るのも大事かもしらんけど。

一方、バンドやなにかでジャムってみたりしているのは、酒を呑みながらあれこれ話題に任せて盛り上がっているのに似ているのではないか。こういうのは結構好きである。特に自然発生的に話題が進んでいったり、会話のハプニングそのものを楽しみながら、その場に生まれた素材を転がしていくとか。ダウンタウンの二人が話すようなレベルで演奏が進んだら面白いだろうな。

無論、行き当たりバッタリなことばかりではなく、あらかじめ決まっている内容を如何に演奏するか、それは音楽としては普通に存在することだが、それってある意味役者的な要素も入ってくるのではないか。演技で表現するということであって、シナリオはあるわけだから予定調和とも言えるが、それはある種の大きな表現のために演技を行っている。しかし、その物語を知らなければ、どんなに演技の技術を持っていても次のせりふは出てこない。しかも、相手がその言葉を待っているならなおさらである。人によっては会話というものを、自分の自論を試す場として使うこともあるだろう。そういうときは、その人は自由に話をしているようでいながら、結局は自分の曲やフレーズに持っていこうとするわけで、エンディングの終わり方も決まってしまっていたり。

音楽を演奏している時に、自分の知っている物語をもちだして「さぁ次は君の番だよ」みたいに言ってこられると、何も応えられなくなることがある。そういう場合、相手は得てして必殺技を持っていることが多く、そこに行きたがっていたりするのが見えるとしらけてしまう。自分にも好きな物語はたくさんあるけれど、それをそのまま曲として演奏してもサムイばかりである。もちろん、どれだけの常套句とか曲を知っているかも大事ではあるが。まぁ好みの問題として、台詞が決まってなくても会話が進んでいくことの面白さのほうが好きなのだろう。とかいいながら、自分も決まったパターンの常套句しか繰り出せないことも多いのだが(笑)

あぁ、言葉にすると面倒くさい。というか、所詮私は自分の考えを文章化することで洗練させていくのは苦手なようだ。

結局、私は演奏が好きなのかと言われれば、そこに会話が存在するのであれば素晴らしいし、演奏者がみな物語を理解しているのであれば、物語を演奏するのも素晴らしいと思う。その場合は如何に物語を演奏するかにも日々の変化や会話的な要素が存在するので、なんど同じ演奏をするとしても、意外と嫌いではなかったりする。

( 2005/11/16 )