スネア・ドラムを美しいと感じるとき

 最近、どうもスネアを美しいと感じる。

 そういう時代なのか、なにやら色気を身につけたのか。

 シェルの塗りやフープのメッキ、ラグのデザインなど、機能美を越えて様式美が高まっているのかもしれない。ドラムという楽器の「円」という決定的なフォルムに、プラスティックの皮や、そしてその皮に大きな張力を与えるためのネジと舟形。こうした部品の集まりが、楽音を追求する楽器の設計というコンセプトのもとに、如何にしてここまで鑑賞に堪えうる造形に成り得たのか。

 いや、ひょっとしたらスネアはすでに意志を持ち、自らを磨き上げるために人間に働きかけているのかもしれない。誕生の意志を持つのは生物だけだなんて考えはどっかに捨ててしまおう。

 その美しさは、2000年を越えた我々が生きている今日に、突然として顕れたものでは無い。曲線美、直線美、手工業、大量生産、職人、オペレーター、アナログ、デジタルといった時代を経て、今ここにスネアが存在している。

 ドラマーはスネアにスティックを打ち込む瞬間に、得も言われぬ表現の源泉を感じずにはいられない。叩く、打つ、転がす、撫で付ける。中心を、エッジを、広大な14インチのヘッドのあらゆる場所を知り尽くし、そしてフープを鳴らす。ストイックなまでに一定規律のサウンドを繰り出すドラマーもいれば、目に見ないほどの細い糸のようなタイトさから、大樹のような太さを感じさせるドラマーもいる。シェルの深さ、ヘッドの種類、スナッピーの本数は大きなファクターだが、それだけではない。チューニングはドラマーのライフ・ワークとも言えるほど深い世界だ。

 ブラシを使えば、そこにはまた別の悦楽の世界が待っている。バラードにおける繊細な表現にとどまらず、ソフトでメロウな音色とクローズドリムショットのソリッドで引き締まった音色のコントラスト、音になるかならないかの微かな摩擦音から、鍛え上げられた肉体から生まれる瞬発的なタッピング・ストロークまで、天井を知らないダイナミクス・レンジという圧倒的な表現。

 シェルにこだわり、フープにこだわり、ヘッドにこだわり、スナッピーにこだわる。音楽家としてのドラマーの欲望はそこで尽きることは無い。時としてシェルのカラーリングに、木目に、フープやラグのメッキに、そしてスナッピーの溶接や半田処理にも美学を持つ。スナッピーといえば、スネアベッドの処理、ストレイナーの構造にも時代やドラマーの探求心の変化が現れている。


 なんだか最近スネアが美しい。ショップではピカピカに磨かれたスネア達が、美術館のキュレーターに扱われるかのようにディスプレイされ、ドラマー達の目にとまるのを待っている。

 直感を総動員し、高級な木目のヘヴィデューティなスネアを細目で見て手に取るドラマーもいれば、遺跡を発掘したかのように目を見開いてヴィンテージを手に取るドラマーもいる。

 スネアを相棒のように感じるドラマーは多い。その価値観は古い、新しい、高い、安いではない。手に取って叩き、眺め、吟味する。一目惚れもある。高嶺の花もある。幼なじみのような、青い鳥もある。ドラマーは音楽人生を共に進むスネアを手に入れると、満面の笑みでその相棒を抱えあげ、自分の真正面にセッティングして、ある時は容赦なく、ある時は慈しむように叩く。


 あれ、俺の相棒はどこへやったっけ。車の中に置きっぱなし?押し入れに入ったまま?誰かに貸しちゃったんだっけ?

 今夜は、スネアをケースから出して磨いてみようかな。






   
(2007.06.29)

( 2010/05/22 )