5)音楽や人生もまたしかり

旨いものに出会うと喜びがある。有名ブランド的な派手で高級感のある旨さもあれば、下町のとんでもなく汚い店で出会えるすばらしい旨さもある。旨いと評判の店を訪ね歩くのも楽しいが、味そのものだけでなく、食べ物による精神状態や身体状態の変化に気がつき始めると、ここに自分のある部分の根っこが存在するのだと感じるようになった。30年以上も生きてきていながら、自分が口にするものに対してろくに理解もせず、他の生物を殺して食っているんだということをどこかで感じながらも、それが地球上の大きなサイクルの中のことだということも考えずにいたということだ。また、味について自分の中の表現が増えてくると、これが実に音楽を感じる要素にも関係してくるし、食べ物のことと照らし合わせてみると、音楽をまた別の視点から見ることができたり、実に楽しい。食べ物を美味しく食べるということには、人間が如何に生きるのかということと深く関わっている。合理的に、フレークやインスタント食品だけ食べて生きていけるのであれば、もっと違う人生を歩めたかもしれないが、私にはできなかった。そして、飯を食うということを通して見えてきた「人とのつきあい方」の中に、音楽を通して見えていたものと同じものを感じるようになってきた。

思い出してみると、私の人生の中にも、たくさんのよい想い出が残っている。キラキラと輝くような想い出を拾い集めてみると、人と集まった時のこと、誰かと楽しく過ごせたこと、誰かのためになにかをしてあげたいと思ったこと、そんなことがいくつも出てくる。そうしてそれは、いつでも自分がごく自然なキモチでいられた時の想い出ばかりである。背伸びもせず、脅えることもなく、格好付けるためでもなく、誰かのためだと押しつけがましく思うわけでもなく...。そうした状態を、仮に自然体な状態だとすると、音楽においても、今まで歩いてきた人生の中のいろいろな場面においても、自然体でゆるりとしているときに一番自分らしさが発揮出来ているのではないか、そして、力むことなく直感に優れ、静かに力が湧いてくる状態ではなかったかと思うのだ。

人もまたうまいものと同じで、「有名な人」だからといって友人になりたいと思うかどうかは別だし、「仕事をくれるから」といって、敬うというわけでもない。しかし、人の場合はわかるまでに時間もかかったりするのだが...。

( 2005/12/25 )