6)自分というもの

僕らの世代くらいまでは、食事を残すとバチが当たる、なんていうことを子供の頃に教えられたものであって、それは今でも残っている。ただ、美味しくないものも黙って美味しく食べる、というのは無理があるのではなかろうか。だって、もし腐っていたらどうするのか。腐るほどではないが、悪くなっているものを食べて気持ち悪くなっても、美徳として美味しくたべなければイケナイというのはちょっと話が違う。

食べているものを美味しいと感じるのか感じないのか、それをハッキリさせるのは、簡単なようでいて難しい。「この音楽に点数をつけてください」と言われるのと似ている。世の中でうまいとされるドラマーはたくさんいるが、みんな、本当にうまいと思っているのか。たとえ無名でも良いドラマーがいたときに、誰かれの評判を聞かずに、自らの耳でその人を認めることができるだろうか。私は利き酒ができるような舌も持ち合わせていないし、そういえばある時、黒豚と普通の豚を食べ比べてどっちもうまくて間違えたこともある(笑)、所詮C級な人間ではあるけれども、自分で判断することから逃げないようにありたいと思っている。

一見中身が無いようなものにも、実は中身があるかもしれない、またその逆もあるかもしれない。視点を変えれば価値も変わる。私という人間はそんな考え方に対して強迫観念を持っているようで、自分で判断するというのは実に難しいことではある。

生活の中にある小さな出来事について目を開けない状態で、どうして人付き合いや演奏のことに気付けるというのだろうか。そういう小さな判断の積み重ねによって、自分や他人というものの存在がより強く感じられると思う。そんなことを少しでも実践できたら、自分としては素晴らしいことだ。

( 2005/12/25 )