自分史 その1(たぶん連載)

我が家はオヤジが広告の仕事をしていた。オヤジのオヤジ(山村哲夫)はN響のクラリネット奏者(当時の画像)だったらしい。オヤジのオフクロ(山村雪子)はピアノをやっていた。オヤジのオヤジには会ったこともなく、写真などの想い出も私の頭の中には入っていないが、オヤジのオフクロは宮崎の延岡に住んでいて「ぽんぽんばぁちゃん」と呼んでいた。ばぁちゃんはもうすでに他界してしまっているが、夏休みに遊びに行った想い出はいろいろと残っている。延岡の家にはピアノがあり、そこでレッスンもやっていたようで、ハノンとかショパンとかなんだとか、そういうものが家にいるとよく聞こえていた。とは言ってもレッスンなので、練習途中の「弾き損ない」を聴かされることが多く「その続きが聴きたいのになぁ」などと思っていた。

オヤジも歌が好きだったらしい。合唱隊にいたという話も聞いたことがある。広告の仕事をしていたことも関係するのか、家の壁に画を描いたり、コンペ用と思われる資料やボード、写植なんかがあったりして、きっとあの当時新しかったと思われる音楽をかけていたような記憶がある。また、私には姉貴がいて、彼女は幼少からピアノをやっていたので、前述したような「弾き損ない」を自宅でもよく聞かされる環境であった。練習というのは大変なものだ。そういえば自分も少し練習させられたことがあったが、一度間違えると最初から弾き直さないと気が済まない性格で、自分の弾き損ないに耐えきれず、すぐにやめてしまった。話を戻すと、そんなわけで家の中にはなにやら音楽はよく流れていたような気がする。姉貴は音楽の大学に進み、アルバイトで写譜なんかもやっていたので、ラジカセ片手に泣きそうな顔しながら譜面を書いていた。あの当時はみんなそうだったと思うが、ラジオで音楽を聴くケースが多かった。仕事をしていないときの姉貴の部屋ではFMがかかっていることが多く、新しい曲、新しいバンド、そういったものがどんどんラジオで流れていて、勢いが感じられた。

写譜の作業をしているときの姉貴は、キュルルル、キュルルル、とラジカセを巻き戻しながら、何度も何度も音を聴いて譜面を書いていた。「難しい」とか「よくわかんない」とかそんなことを言ってぼやいていた。そのアルバイトは結構大変だったらしく、姉がいるときはラジカセはフル稼働で、私が使うことはできなかった。そんなこんなで、自分も聴きたいときに音楽を聴きたいという気持ちから、居間にあったステレオからスピーカーケーブルを自分の部屋まで延ばしたり、電気屋の裏に捨ててあったステレオを自転車の後ろに積んで持ち帰り、ちょこちょこ手を入れて使ったりしていた。あの頃のものは、全体が大きく木で出来ていて、上の蓋を開けるとプレーヤ、中段にアンプ、というような構成だった。捨ててあったものにAC100Vを入れるのは最初は恐かったが、回路をたぐってテスターで確認すれば大丈夫な筈だと自分を言い聞かせるようにしてプラグをつなぐと、あっさりと動作してくれたものだった。動作するようになれば、あとは家にあったそう多くは無いレコードを聴いて楽しんでいた。

さて私は、生まれてすぐに病院の医者から「長くないかもしれません」と言われた子供らしく、よわっちい赤子だったようだ。3日持つかどうか、という話もあったようだが、オフクロはいろいろ苦心してくれたようで、今となっては3日が40年にも伸びて、それはまぁ有り難い話である。体が弱いというイメージは、いつの頃からか持っていた。家の中で遊ぶことが多かったようでもあり、まぁ人並みに外で遊んだ記憶もあるけれど、走るのは遅く、体育は大嫌いだった。それでも小学校のときにサッカーが好きになって、周りの皆には到底追いつかないのだけれど、一緒に走り回るだけでも嬉しくてたまらなかったことがある。サッカーは、ただ速く走るだけじゃなくて、流れを見てうまい場所にいれば、自分のところにもボールが来るチャンスがあった。速ければいいというものでも無いという気持ちを持てたことで、自分なりの参加の仕方があるのではないかという気持ちを持てたことが嬉しかった。これで運動が好きになれるかもしれないと思ったが、しばらくして溶連菌性肺炎というものにかかり、長く学校を休んだので自動的にサッカーもやめることになった。そういえばあの頃は、眠っているととてつもなく巨大な黒い球のような物体の上に自分が乗っていて身動きがとれなかったり、やはり巨大な物体が迫ってきて触れた瞬間にものすごい恐怖で目が覚めることがあった。これはなんでも「無限に触れる」ということらしいのだが、詳しくはわからない。

小学生の誕生日だったと思うが、ドライバのセットを買ってもらった。自分でねだったのか、オヤジが選んだのかはよく憶えていない。しかしそのドライバがとても嬉しかったのを憶えている。子供の頃は、日曜日になると早く目が覚めた。まだ家族が寝ているところを外に出て、ゴミ捨て場などに置いてあるテレビやラジオ、掃除機などをどんどん分解するのが楽しかった。テレビやステレオについているスピーカーから大きな磁石を取り出せると、砂鉄を集めたり、学校に持って行って友人に見せたり、なんだかそんなことが楽しいものだ。真空管やコイルなどいろいろな部品もかっこよく見えた。分解した後は一応元に戻そうとするが、大抵うまくいかなくてそのまま放置していた。

余談だが、体が弱かった私は、子供の頃はよく熱を出したりして寝ていることが多かった。そういうときは、姉貴によく漫画をねだっていたように思う。姉貴は買い物とか出かけた用事の帰りに買ってきてくれた。ジャンプのような少年漫画のときもあったが、別冊マーガレットとかもあって、その後もよく読むようになった。姉貴の部屋にはアップライトピアノが置いてあったが、そこに拾ってきたステレオを持ち込んで、ヘッドフォンで聴きながら漫画を読むのが楽しかったという記憶もあるのだが、それがいつの頃なのかはちっとも思い出せない。

中学生になると、友達の家に行っていろいろなものを見て、それが欲しくなると言うことが増えた。漫画の道具、BCL、アマチュア無線、Nゲージ、ラジカセ、ステレオなどなど...。中学の時の友達で、アマチュア無線の送受信機のセットを揃え、家の中を改造して専用の部屋を作り、タワーを建ててローテーターでアンテナを回すヤツまでいた。さすがにそこまでの機材は望まなかったが、アイツんとこはすげぇなぁと友達といいながら、自分は団地の屋上に登って碍子(がいし)を使ってアンテナを張り、自分の部屋まで引き込んだりしていた。屋上へはハシゴを持ってこないと上がれないようになっていたが、ちょっと工夫すると壁を脚で蹴りながら登ることができた。屋上はとても恐かったが、空が大きく見えるのが気持ちよくて、それ以降結構な遊び場になった。雪が降ると屋上にあがり、雪だるまを作って下に落とすという非常に危険な遊びもやっていた。しばらくすると、屋上の出入り口の蓋には鍵がかけられるようになったが、それを開けるのはたやすく、引っ越すまでよく登っていた。

そのころは、BCLラジオのセットだったり、自分専用のステレオだったり、そういうものを親から買ってもらって楽しんでいる友達が登場していた。自分も結構ねだったりしたが、あの頃うちには従兄弟が一緒に住んでいたりして、あまりそういう状況ではないことは自分でもわかっていたようだ。友人がステレオを買ったのを見せびらかし「これビートルズっていうんだぜ」なんて言われたりすると、うちに帰って拾ってきたステレオを見ると悲しくなった。またある時、友達がNゲージのセットを見せてくれた。部屋の中に広くレールが敷いてあり、その中をNゲージが動いている。自分的にはコントローラーがすごくカッコイイものだった。早速店に行ってNゲージを見に行ったりした。小さな単位で少しずつ買っていくならできるんじゃないだろうかと思って、家でそれとなく言ってみたが、やはり買うという方向には行かなかった。まぁそうだろうな、という残念な気持ちではあったが、それならば金をかけずにと、規模縮小して切符を集めるのはどうかと考えたことがあった。切符というのは、駅によって鋏の形が違う。切手を集めたりするのが流行った延長で、いろんな駅の鋏のやつを集めたらどうかと、友達と話して思いついたんだったと思う。そしてそれを、オヤジに言ってみた。それだったら金もかからないからいいでしょう?的な、ちょっと惨めな話ではある(笑)すると、こういう言葉が返ってきた。「なにかを集めるとか、人がやったものを集めるのではなくて、自分で考えたり、自分で作ることをしたほうがいいぞ。」実際、最初に言われたときは「また駄目か。」と思った。じゃぁなにをすればいいのさ、みたいに言ったんだと思う。すると「ステレオだって自分で作れるんだぞ」という。いやいや、俺は拾ってきたステレオで音は出せてるんだ、俺の欲しいのはテクニクスのカッコイイコンポであって、あのデザインなんだ!あのデザインはメーカーが独自に作っているわけであって、そんなのが部品だけ売っているわけがないと、そんなことを言ってみると「いや、そういうものもなんとでもなるんだ」と返ってきた。そんなこんな子供ながらの駄々コネがあったのち「じゃぁ本屋に行ってみよう」ということになって、オヤジと一緒に本屋に行って、電子工作の本を見てみることになった。あのときのことは今でもよく憶えている。竹ノ塚の駅から東に行った、あのころ東光ストアというのがあったあたりで、今では竹ノ塚健康ランドの建物の向かい、ミスタードーナツのあたりに小さな本屋があった。店の本棚のずいぶんと高いところに、ラジオの作り方とか、そんなような本がいくつか並んでいた。オヤジが順番にペラペラとめくりながら、適当なものを選びながら手渡してくれたんだったか。本のページをめくっていくと、回路図や手作り作品の写真、工具の使い方などいろいろなことが載っていた。もちろんそれは、欲しかったテクニクスのなんちゃらコンポとは全く正反対で、弁当箱に使うようなタッパーなんかを使った無骨なものなどだったが、その中に、透明なプラケースを使ったものがあって、その無垢なプラケースを異様にカッコイイと感じたのだった。結局その日はその本を買ってもらい、それから夢中になって読んだ。プラケースに穴を開け、部品をネジで留め、ハンダ付けし、組み立てていく、そんなことを実際にやってみたくてたまらなくなっていった。プラモデルと違い、作った後に使う用途があること、そして、買ってもらえなくても自分で作れるんだという気持ちが、たまらなく嬉しかったことを憶えている。

後日、オヤジは秋葉原にも一緒に連れて行ってくれた。記憶に残っているのは「ニュー秋葉原センター」だった。なぜだかわからないが、この「ニュー」という文字を「エコー」と読み違え、結構な大人になってからその間違いに気がついた。たくさんの店が立ち並ぶ中で、抵抗、コンデンサ、トランジスタ、そして色とりどりのケーブル、電球、見たこともない工具、珍しい電池、そして本の中で見たプラケースなど、いろいろなものが並んで、重ねられ、吊り下がっていた。このときに買ったのはラジオかなにかのキットだったと思う。念願のプラケースは当時の小遣いでは買えず、ずいぶん後になって買ったと憶えている。さて、こうしてめでたく秋葉原小僧となった私は、その後なんどとなく秋葉原へ通うことになる。

(づづく)

( 2006/01/19 )