makito's voice

2008年03月05日

  • 昨晩のマルディグラは満員御礼、楽しくやれたしいろいろなものを感じることができました。実に深い時間でした。ちょっと酔っぱらいすぎたのと花粉症でアタマ痛くてたまらんかったですが。最近セッションしたり演奏を聴いてくれた人達から同じようなことを言われるのだけれど、私って言うのは綺麗な曲とか優しい音ってのが好きなんだなと気付かされました。まぁ在る意味当たり前なんだけれども、好きと言うより、なんも考えないときの出発点がそこであることが多いというか。あぁなるほど。それを自分で認めてあげてなかったんだな。バイアスに気付かずニュートラルなつもりだったわけだ。ソレが故に際限の無いバランスの中をさまよってみたりしたのかもしれない。やっぱ0-100的に極端なんだなぁ>自分。
  • なるほど「綺麗」というものの一言で言い切れないものだ。自分の中の「美」の定義を考えてみると、あぁまったく意識していなかった何かが湧いてくる。面白い。シンバルに求めるものも、楽曲に求めるモノも、デザインに求めるものも、生活や人生に求めるものも、あぁそうか実は「美」が欲しいのか。優しさも暴力も論理もフィーリングも日常も非日常も綺麗も汚いも非凡も平凡も、美に収束させられていなかったんだな。そして他人とも、その美の観点からコミュニケートすることができなかったということか。美を感じる意識って何か、人によっては好き嫌い、嗜好、感性、現実、高揚、冷静、ポリシー、プライド、哲学...。なるほど。おもてなしの基準を美に置いてみる。美のないプライド、美の無い哲学。プライドを傷つけず美を否定してしまう瞬間。美から発生したものをプライドや哲学と決めつけてしまう行為。自分で自分の美に気がつかず、観念的に定義された周辺のボキャブラリーで判断してしまっていたのか。欲しいのは綺麗でもプライドでもなく、中心にある「美」か。美を以て人とする。俺の周りにいる人達は皆美を持っている。みなそこに向かっている。素晴らしい力を持った人達が多い。そして持たぬ人もいる。しかし本当に持たぬのか、自分がその美を理解できないのか。美を見つけることでまた違うコミュニケーションが取れるのではないのか。今、何の美を感じているのか。美を失うと力が出ない。美を共有すればつながることができる。ははぁなるほど。もう少し美に貪欲になっていいんだな。音の美、色の美、造形の美、心の美、厳格な美、優しさの美、暖かい美、冷たい美、生き方の美、贅をこらした美、素朴な美、質素な美、立ち姿の美、動きの美、整理された美、混沌の美、実直な美、クリエイティヴな美、旧態依然な美、集合の美、孤独の美、2次元の美、3次元の美、時間の美、粒の美、響きの美、感触の美、味覚の美、快楽の美、忍耐の美...。俺の好きなものはみんな美につながるではないか。美を理解する力を容赦なく面に出すことが大事なのだろう。ただひとつ「美」という言葉が的確なのかどうかはゆっくり考えてみよう...。自分にとってはメタのメタのメタのメタくらいな括りなわけで。しかし、美はあらゆるパワーの方向性を持っているなぁ。となると、このサイトもまた考えないと...。あちゃー。でも楽しい。
  • そうそう、DWの9000を使ってみたのですが、とても演奏しやすかった。DWはいろんな人が使っているのを横目で見ながらも、ヒールダウンやオープンを使った時の音の変化の具合でFP720のほうが馴染んでいたり...。ところが9000はなにやら違うなぁと。とにかくリニアに変化してくれるし、ストレートで迷いがないペダルですねー。しばらくこれでガッツリ練習してみよう。
  • それはそうと、終電を逃した鹿島をさっさと置いて帰ってしまった。ごめんな鹿島。君の美を大事にしてやれなかった。ムヒヒ。