makito's voice

2009年04月08日
スイッチ

  • Quiet mountain。私の「山の先生」のブログです。素晴らしい。西穂高や八ヶ岳の写真の素晴らしいこと。ストーリーに本人ならではの臨場感もあるし。日本とは思えないくらい...。こりゃ凄いなぁ。あ〜こんなのは無理だけど、また登りに行きたい。とりあえず安全で見晴らしが良くて下山途中に温泉とかあるようなところに(笑)
  • 山や海に行くとスイッチが入るという感覚。演奏のためにステージにあがったりスタジオに楽器をセットアップするとスイッチが入るという感覚。旅をすると、もしくは旅をしているという感覚になるとスイッチが入る。仕事にしても、なんというか旅モードというのがスイッチの正体なのかもしれない。学校、就職、人付き合い、恋人などなど、自分がなにか動く「場所」を求めたいという気持ち。そもそもの居場所があって、そこからの反動としての旅。以前から、自分にとって東京にいるということは「旅」になりにくいと感じている。自分を解放できる場所ではないというか。それはなぜかと考えたら、そもそもの居場所が東京だからではないだろうか。しかし、東京に自分の「居場所」を持つことは難しい。自分のものではない土地の上に住み、人の作った食べ物を食べる。東京というのは、すべてがステージであって、言い換えれば都会の人間や物資や思想や概念がひっきりなしに通っている道路や線路のようなものだ。そこは居場所のようでいて、ただのスペースでしかなく、線路の脇やステージの脇に安住の地を持とうとすることは無理がある。住むことにも、ステージと意識して動くことにもどちらにも半端になっている。このところ、山や海にいながら、そうした喪失感が自分なのではないかと感じた。田舎に住む人が、その土地にうんざりして都会に出る。それは、都会で育った人間がウンザリして田舎に行って最高とか言っているのと似ているのかもしれない。バランスで考えると、人は根っこを張る場所を持ち、そこを反動の土台として、ステージとして捕らえ行動することの理由を持てるのではないだろうか。そのための根っこは、木々の大きさと地中の根の大きさの対比を考えば、氷山の一角的に大きく揺るぎないものであるほどエネルギーを貯めるのかもしれない。とはいえ、居場所とステージの関係も、時間によって変化もある。都会を居場所にすれば、反動の軸が移動していずれ反動の土台として作用しなくなる、そんなこともあるだろう。人間はやりたいことを考えるときには、目的地を天秤に載せて、その反対側にも確固たる反動の土台を持つ必要があるのではないか。そして、その場所を持ったときに何かをやりたいという気持ちが湧くのかもしれない。それは単なる場所の問題だけでなく、下積みの時期や心を動かされる体験や成長過程や宗教や哲学なども天秤に乗る反動の土台となるだろうし、この反動の土台というのは、言ってみればその人にとっての「帰る場所」なのだろうなぁ。いずれ、自分は天秤のバランスを如何にとることができるか。これが今年の課題だなと感じる。反対側の手入れをすることで、おそらく自分はもっと動ける筈だ。動け俺。
  • 竹富島で吞んだレモングラスとウコンのお茶。これはなかなかうまい。レモングラスはよく育つらしい。1年に4回くらい取れるとか。とてもよく味が出るし。あぁそういえば岩場にはたくさんもずくがあったな。恵みの土地か。