makito's voice

2009年05月28日
内容というもの

  • 以下フィクションです(笑)
  • 昨日は、専門学校の授業がなにやら大変だった。エネルギーの交錯というか、ある意味豊穣さも感じつつも、なにか大きな作為に引っ張られているような場の動き。身体の底から声を出すと人は耳を傾ける。いや、聞く、ではなくて取り込もうとするというか。言葉や音を媒体にして、人から人へ「内容」が移る。物を伝えるとはそういうことなのだろう。
  • そんなエネルギーは、実はその後に来るエネルギーが近づきつつある前ぶれ、いわば台風の前のザワザワした風のようなものだったのかもしれない。初めて会ってから10近く経とうとしている卒業生3人、中野、土方、松山に集まってもらって、取り止めもなく飯を食い、吞みに行った。中野はドラムマガジンで毎月顔を合わせるが、仕事抜きのモードは久しぶり。松山ことヤマセンは山のことで世話になりはじめてつい最近も会ったが、それも3〜4年振りくらい。土方に至っては8年ぶり。3人を目の前にして、意外にも無条件に楽しくなっている自分を発見。10年前に彼らの間に迸っていたエネルギーは、こうして集まると同じように漲ってくる。大袈裟といえば大袈裟だが、なんというか昨日は自分のモードが凄く変化していた。
  • 浅草に行き、金楽で塩ハラミ。そして浅草寺裏のぬる燗に行くが入れず。コマキの西尾くんにお助けコールをして、結局ホッピー通りの外テーブルで吞み。抜群のシチュエーション。いい場所だな〜。話しが弾む。まぁ要するに自分が勝手に呼びつけておいて、話したい内容をぶつけて、若者の様子を見ているに過ぎないのだが、彼らの目線は、ここ数年このオヤジが抱えている疑問符を払拭するに余りあるものだった。頼もしい。枝葉に分かれては幹に戻りながら、話題は進んでいく。なにも結論を出す必要もないが、すでに結論は出ているような。

    金楽の塩ハラミ

    改装中の浅草寺にて。中野、土方、ヤマセンこと松山(特別山ルックにて参戦)

    優しい若者達

  • そんな雰囲気の中、コマキの西尾君が合流。かなり痩せていて一瞬ビックリしたが、どうやら減量しているとか。さらに時間はあっという間に経ってしまい、駅に向かう。東武線組はあと30分は大丈夫ということで、ビールをもう一杯だけ吞む。そんな時間もつかの間、電車へ。電車の中で中野と9年近く前の話になる。酔っぱらいが2人、まぁ悪い癖で甘楽甘楽としながら話をしていたが、急速に何かが核心に近づく。

    ホッピー通り。ゴキゲンな感じ。

    すっかり地元民な西尾君

  • 細かいやりとりは憶えていない。言葉を、声を媒体とした「内容」が突出する。本能的な「内容」が口を動かして言語となり音となり伝わってくる。口が喋るのではないのだ。今まさに生まれようとする胎児のように「内容」は身体に準備をさせ、自らを外に出させる行動を取らせている。思考は止まる。あれこれ考えるときでは無い。気がつけば、自分の「内容」もすでに媒体を用意し飛び立っていた。彼は少しのけぞるような姿勢になって一言二言反応し安堵を見せる。「やっと言えました」と言っていた。台風は過ぎた。9年間彼が心の中に持っていた「内容」が、仲間との再会の日に、道を見出し渡ってくることができたのかもしれない。もしくは時を経てようやく、空に昇華されたのかもしれない。いや、単純に俺が彼に対して間口を開けていなかったため、彼はずっと待っていたのかも知れない。その間9年間。「内容」とは言葉にすると何なのか。それはまったくどうでも良いことである。問題なのは「内容」が届くのか、響くのか、そしてそれは昇華するのか。この余韻をまだまだ分かつ必要もあったが、降りるべき駅に到着した。ここで降りるから、俺は冷たいのだ。閉じているのだ。降りずに話を続けるという選択もある。とは思いつつもやはり降りる。しかし、通り過ぎるときに彼は必ず見ている。そしてこちらも必ず見ている。それは約束されたようなものだった。
  • 気がつけば、ヤマセンも土方も西尾君も、いや、私の周りにいてくれている人間は皆「内容」を持っている。「内容」が響き合うことを望み、会話を投げ、距離を縮める。しかし自分はまだ言葉を会話にしたてあげ「内容」を伝え損ねることがままある。「内容」が響き合うというのは、ある意味で結論が出やすいと思う。会話は構築出来る。「内容」は言語でもなければ考えでも感情でも無い。おそらくそれは心なのだ。しかし、心という代名詞が背負っているもののすべてとは合致しない。「内容」が響かない人間関係は多い。むしろその方が多いだろう。だから、言語での構築を試みる。言語はリンクであるから、参照するものを求める代名詞となる。時間がたてばリンク切れも生じる。そうした不備や言語という論理の中にある矛盾を解消するために、代名詞の使い方を日夜考える。いつしか代名詞の使い方は「内容」を響かせることに先んじてしまい、それを利便的にコミュニケーションとしてしまう。しかし、言語は作品のようなものでもあり、創ることの楽しみも確かに存在する。その楽しみに興じている間、自分というものは閉じている。眼前に存在があったとしても、それは作品のためのダミーとなる。今日、自分は開かされてもいたし、誰かを開いてもいた。それは実に音楽的なことと似ていて、そして生きることの根底につながっているとも確信させられる。思えば、自分を知る多くの人にいつも言われていた気がする。開けゴマ!と。そう、意識して開けるようになる日も遠くはないのかもしれない。そうやって結局自分の範疇に収めるところはおそらく死ぬまで変わらないのだろうけれど。
  • 衝動に任せると構築は難しい。