makito's voice

2009年06月04日
釈放

  • 17年前のDNA鑑定を覆し釈放。これはなんとも凄いニュースだ。物事に絶対は無いとは言え、事件に対する恐怖や怒り、二度と起きて欲しくないと願う気持ちの延長線上に、犯人を特定したいという心理があり、特定した後に罰則を決定する。そこに多大なる行き違いやミスが起きているということを認めざるを得ない時代。DNA鑑定の精度によって結果が翻るということが一体なにを示すのか。誰もが科学的判定に安堵し、ともすれば寄りかかり、もっと悪くすればそれを絶対として業務や生存者の心理的な解決点を決める手だてとしている。この決定には、おそらく鑑定精度の進歩云々よりも、当時の捜査や鑑定した材料そのものの扱いなどに疑念を認めたという面もあるのではないか。しかし、ニュースをみただけでどうこう言えるものではない。一番気の毒なのは、もはや口をきくこともできない、事件に巻き込まれ亡くなった人間だ。そして、その事件の解決の途中で二次的な事件が起きて、それに巻き込まれたという構図。犯人が特定できたら安心、という考えもまたステレオタイプであろう。原因にふたをすれば臭くなくなるという面を人間はいつまでも持ち続けて生きていく。そんな生物であることを、いつの日か変えられる時がくるべきであるし、きっと来るはずだと思いたい。物事に絶対はない。ひとつ思うのは、その事実に現代人は耐えられるのか。絶対をよりどころに生きている人間は少なくない。絶対を教えられてきた人間が、絶対を放棄するとき、ただ勢いですべての理性や社会性を否定してしまう幼稚さへ短絡的に動いてしまうことはないだろうか。絶対が無いんだったらなにしてもいいじゃん的な。絶対が無いからこそ、向かうべきベクトルを持つべきであることを、どうやって納得できるのだろうか。今回の異例の釈放は、そういうフィードバックを人間が選択したということであると考えたいものだなぁ。