makito's voice

2009年07月18日
チェンジリング

  • TSUTAYAでレンタルされていたので観ました。重い内容だけれど、観て良かった。とても良い映画だと思う。これが実話であり、あんな話しが当時のロスにまかり通っていたのと言うのはなんとも言葉にならない。あの映画は多くの人に観てもらいたいとも思う。全編において全て肯定でもないのだが、感じ入る物が多い。
  • うまく言葉にできないが、この映画を観て何かを考え直すことができた。ちょうど昨日書いていた電車の中での話しってのは、実のところもうずっと前に書いていながらも「ネタ」というテキストファイルに入っていたままだった。そこにきて、このところかなり思い重なることが続いていた。近年、自分は教えるという時間が多くなり、若者と対峙したり雑誌に記事を書いたりする中で、大変に苦悩してしまうことがある。苦悩するというのは、実に良くない。一生懸命やれば良いというものでは無い場合もあるし、苦悩した時は、大抵なにかしらやりすぎたり、ずれたポイントに対して力が入ってしまっていたり...。しかし自分は生来諦めが早いというか、要するに適当であるというか、物事や人に対しての距離を詰めたかと思えばいきなり離したりするところがある。そうして、あまり近接しないようなバランスを取っているのだろう。ノラリクラリなのだ。ところが、最近は周囲のドラマーや諸先輩方から受ける影響の中で、どこかでもっとできることはないのかと考えるようになった。もちろん、自分に子供が出来、日々の生活の中で感じることも大きく影響している。しかし今までそうやって生きてきた人間が、そう簡単にいきなり変われるものではない。実に辛い時がある。このところそういうことが少なくなっていたのだが、つい先日そういうケースがあった。無理をせざるを得ない。教えるってなんだ?情報か?オイシイフレーズか?テクニックなのか?パフォーマンスを見せることか?好きにさせることか?人間性を教えることか?手取り足取り接待すればよいのか?自分にとって、音楽は追究するものであるし、修行みたいなものだ。ただ、それをそのまま対峙した人間に見せれば、それはただ退屈な他人の価値観だろう。いやもう、言葉にすると陳腐だな。そんなことではないのだ。
  • 共有する物が無い状況で、なにかを模索するのは実に苦しい。無理をしなくてはならない。エイリアスを用いることもあれば、ストレートにぶつけることもある。音楽を演奏することについて考えるにあたって、それは遊園地に来た客をもてなすようなことは自分には出来ない。なぜ出来ないのか。それが「not my Son!」なのかもしれない。どんなにエイリアスを使っても、結局チェンジリング(changeling)なのだろう。そして、おそらくエイリアスによって、話は歪曲し実のところ嘘が生まれ不誠実になっているのかもしれない。ちなみに、チェンジリングというのは取り替え子というヨーロッパの民話から来ているらしい。
  • 昨日の日記の内容とこの映画がなぜ関係があるかといえば、それは「あるべき姿」を模索するかどうかということだ。そして正義が何であるかを求めるかどうか。電車の中で多少のエチケットやルールに外れたことをしようが、奇行が行われようが、それ自体はどうでも良いのかもしれない。しかし、その延長線上に何があるのか。それを感じていながら放置することは良いのか。おそらく自分は「放置してはいけない」なにかを感じている。しかしそれは自分の価値観でしかないという理屈によって、ある種の自信の無さを露呈する自分も感じる。そこに隙がある。まぁ思っているけど言わない自分と、本当は言いたい自分。しかし、隙を警戒しすぎると自然ではなくなる。チェンジリングで起きていることは、理不尽な事件と、コミュニケーションを断絶した上での事実の積み上げによる第2第3の不幸。彼女は「not my son」を貫く。親とすれば当然のことだろう。しかし、自分はそこに無理をして、エイリアス本体と思おうとすることに努力をしてみるが、実のところやはりそれは努力でもなんでもなくて、そもそもnot my sonなのだ。思おうとすることで生じる無理。何かが明白になった。そして、その途端にとてつもなく身体が重たくなった。俺のやりたいことはどこへ行った?自分についていた嘘も見えてしまったのかもしれない。次のhopeのおぼろげな輪郭が見えてきているのがまだ救いではある。
  • あぁさっぱりよくわからん文章。遠回しな言い方もここまでくるとアホくさい。しかし、だいぶ剥けたのだ。これはこれで良いことだ。