makito's voice

2010年06月28日
フリーハンマリング体験 at 小出シンバル

  • あー今日のは長いです。1万字ありました。今後読みやすくする勉強しますので勘弁してください。でもこの日記は商品ではないので、勘弁してください。なんにしろ勘弁してください。
  • 「知る」ということ、体験するということは、理屈では表せない充足感や満足感を与えてくれることがある。今回の体験はまさにそれだった。

    <自分のシンバル遍歴>

     自分のことで大変恐縮だが、そもそも自分のページなのでいったい誰に謝っているつもりなのかもわからぬ。まずは自分のシンバルに対する想いというものを書いてみる。コレなしには、今回のことは意味を成さないだろうし。

     思えば、皮を張ったタイコというものを始めて叩いたときから、ダウーンと揺蕩う音色が、叩く加減によって変化するのを楽しく感じていた。理屈なしに原初的にそう感じているようで、これは赤ん坊などと同じなのではないか。この「変化」というものはなにやら素晴らしく大事なもので「打てば響く」という、打楽器野郎にはとても便利な諺があるが、打って響く変化の具合によって、愉悦とも言える叩く快感が湧いてくる。私はピアノもギターも満足には弾けないが、音を連ねていくことの楽しみや興奮が手の加減で生まれてくるのだ。たぶん自分はメロディやリズムを奏でたいのだが、それは音階やスケールを理解して音程を歌うというよりは、もっと直情的な「タッチによる変化」というものによって運転していける世界が好きであり、おそらくそれ以上のことはできない単細胞なのだと思われる。

     そこにシンバルというものが登場する。意識して叩き始めたのはいつだったか。渋谷のヤマハに小川さんという管楽器のリペアなども行う方がいた頃だったか、「Hand Hammered」と書かれズラリと並んだシンバル達の金額に驚愕しつつ眺めていると「叩いてみれば」と言ってくださった。「いや、こんなの買えないんで」「買わなくてもいいじゃない。叩いてご覧よ」そして近くにあったスティックで叩いてみると、得も言われぬ音がする。「へぇぇ...」「なんだかロールみたいなものが、部室のシンバルより叩きやすいな...」楽器が誘導してくれるような感じと言えば良いのだろうか。スティックを当てて叩いてみると「こんどはこっちを叩いてみろよ」と言ってくれているようである。「あぁそこそこ、そしてそのまま少しスティックを立ててみたり、横っちょで叩いてみなよ、俺のいろんな面が出てくるんだぜ...」どれもそうした会話をしているような、個性のあるシンバルばかりだった。ただ、その中でもひとつ、とても会話の楽しい一枚があった。これは他の場所にも書いたことがあるけれど、その翌週にローンを組んででも買いたいと思って再訪したらば、神保彰氏に買われてしまっていてガックリした。カナダKの20インチだった。良い音、綺麗な音、というだけでなくなんというか「筆が進む」の音楽版、スティックが踊る、そんなシンバルがあるのだなと思った。音を連ねる毎に世界が広がっていき、いつまででも奏でていたくなる、そんなシンバル。そういうシンバルを叩いていると、ロールがうまくなったような気がして、チップがシンバルの表面を捉えるその瞬間に集中することが快感にもなった。

     そんなことがシンバルのなにかを感じる原体験であったわけだが、その後ドラムセットを所有し、好きなドラマーの使っているものと同じ楽器を揃えたりすることが多かった中で、音楽方面の仕事を始めてから、パイステ社に関わる仕事をさせていただくようになった。倉庫へ行って全製品を叩き、カタログに載せる文章を作る、シンバルのセミナーみたいなものをやる、雑誌の試奏レポートを書く、などなど。パイステを使っている先輩ドラマーと話をさせていただく機会も得て、いろいろな方々がシンバルについてどう思っているかも聞かせていただいた。自分は当時、今は無き六本木ピットインなどでフュージョンバンドみたいなものをやっていた頃で、パイステを自分でも使ってみるものの、あまりジャズに向かない印象があったり、多少落ち着いた音量やトーンが欲しくなるなどのこともあったが、その後トラディショナルシリーズなども出てきたりして、さらにシンバルの種類が広がっていく時代だったように思う。

     そんな仕事がひと落ち着きした頃、やっぱもう少しダークで深みがあって、他の楽器との混じり方の違うものに興味が出始めた頃に、ディジョネットやガッド、そしてジェフ・バラードやブライアン・ブレイド、マタイン・ヴィンク、アンドレ・チェカレリ、ビル・スチュアートといった人達の音が一様に耳に飛び込んでくるようになり、そこに夢中になってきた。気がつけば浅草コマキの当時4階にあったドラムフロアに入り浸り、楽器店や販売元に出向き、ヤフオクやeBayで毎週のように落札し、ジルジャン、セイビアン、パイステ、イスタンブール、ターキッシュ、ボスフォラス、マスターワークス...あとなんだっけ...、そして禁断のVintage K(オールドK)にも手を出す始末。スタジオの床をシンバルで埋め尽くし、叩いては取り替え叩いては取り替えの繰り返しで肘を悪くするアホな状態だった。世の中にシンバルは数あれど、いざとなるとどれも気に入らない。おっ!これは良いかも!と思っても、しばらくすると「小さなイライラ」が生まれ、結局また違うシンバルにしてしまう。ところで「小さなイライラ」というのはリズケン講師の染川君の名言
    。特許出願中。さて、自分の求める音とはなんなのか、なにが気にくわないのか...どのシンバルも水準以上である。あとは自分の腕だけなのだ。しかし満足できない。カレーライスの横にラッキョウを添えたいのだが、沢庵しか無い、悪くは無いがやっぱり違う、そんな感じなのだ。

     時代的には有名ドラマーのシグネイチャーモデルとして、ヴィンテージ回帰なサウンドはたくさん出ていた。あるシンバルをして「これぞビバップ!」と称していた人もいたが、違う違う、自分はビバップサウンドのリバイバルを求めているのでも、ジョーモレロになろうというわけでもないのだ。無論なれるわけも無いが。いろいろなシンバルの中には「これで決まり!」と感じさせるものもあった。しかし、シンバルはセットで揃ってナンボである。ライドがよくても、マッチングの良いクラッシュ、ハイハットが揃わなくては意味が無い。そのマッチングの良いトライアングルが、なかなか出来ないのだ。そしてまたドラムセットとのマッチング。あのドラムセットならばこのライドなのだが、こっちだとこれ。あんな仕事のためにはカチンカチンのシンバルだけど、こんなギグにはメローなやつ、などなど。

     先人ドラマーたちは皆天才である。もうそう思うしか無い。ていうか実はみんな偶然なんじゃね?と思うこともあった。ジェフバラードに、マタインヴィンクに、直接会って聴けば、良い楽器はミュージシャン同士でトレードしているという。中古やオークション市場になど出てこないのだ。そして彼等の音を生で聴けば、どう考えても違うレベルの音がする。無論奏法は差し引いての話であるからこれを読んで短絡的にとらえては欲しくない。それらは往々にしてオールドKだったりもするので、致し方の無いことではある。自分は20枚手に入れて、気に入るものは1枚あるかどうか...。そしてもうひとつ、隣の芝生は青いというものがある。そこで、知人のドラマー連中が使っている「コレは良いね」というシンバルを借りてきてみて使ってもみるが、やはりダメなのである。

     あまりにあれこれやっていると、本道がわからなくなる。いっそAジルを普通に揃えて、色目を使わずに演奏すればよいのだと思い、70年代頃のものを一式揃えてみたりもする。一枚であれこれやろうと思わず、ファンクっぽいもの、ジャズっぽいもの、広い場所で使うもの、小さなハコで使うもの...分ければいいのだ。しかーしなんだか納得できない。俺なんてそんな要求されるほどでもないのだ。なぜそんなに必要なのか?ライドとクラッシュ2枚、あとはチャイナとスプラッシュがあればそれでいいじゃないか。なのになぜこんなにシンバルのケースが存在しているのだ。ケースの中身を見れば、どれもこれも良いシンバルたちである。しかしどこかで保険のために持っているようなところがある。困ったものだ。


    <小出シンバルへ行くことになった経緯>

     そんな私は、シンバル狂いの最中に、浅草コマキドラムシティで小出シンバルを知るようになっていた。日本でシンバルを作り始めた人がいる、ということをN尾君から聞き、そして入荷したシンバルの音を聴いていた。パイステ寄りのサウンドかな...。おそらく作り易いのではないか...。しかし、新製品が出てくるたびに、何かしらサウンドの幅やベクトルが微妙に変わってくる。ふうん...。そしてある時「これ聞いてみてよ」と言って叩かせてもらう。「えっ?」これは明らかに反量産的ハンドメイド・サウンドのカテゴリーだ。これが作れるようになったのか...。これって凄いことではないか...製品展開や、個体差の幅、生産量など、メーカーとしてみればあれこれやるべきこともあるだろうけれど、しかし少なくとも日本では他にこういう動きはない...。頼まれたわけでもないがあれこれ考えてしまう。それからしばらくして、豊橋のシライミュージックで小出シンバルのカスタムオーダー会というのをやるという。そしてちょうど別件でお会いしていたコマキ通商M氏のつながりもあって、オーダー会に第3者として出かけていき、ゲスト参加のパーカッショニスト玉木さん、小出社長との初対面となったのだった。対面して3分後には602だのEAKだのCanadaだの、みんな好きねぇ!っていう会話に突入したのは言うまでも無い。

     その時のことやシンバルオーダー会については別の日記に書いているが、その会場で叩いたプロトタイプはそれまでに聴いていたものよりもさらに素晴らしかった。なにより対話を感じさせるシンバルだった。そして自分が持参したVintage Kや使っているシンバルも聞いてもらい、材料から製法まで話題が膨らむに、つれ小出社長から機会があれば工場へ来てみるといい、と言っていただいた。その後なんやかんやで3ヶ月も経ってしまったが、18インチで1200g前後、というラインが心に決まってきたので、無理を云ってお邪魔させていただくことができた。

    まずは大阪へ!なんば駅近くのうどん屋。240円で激ウマ!大阪最高(一応大阪生まれなんで)!

    平野駅へ

    どことなく足立区と共通点を感じたりしながら歩く...

    小出製作所到着!

     工場に着くと、少々話をした後に「やってみなさい」と言って軍手を渡される。お願いしたサイズとウェイトを想定した材料を使ってフリーハンマリングを体験してみたらということになっていたのだ。工場にはハンマリングのマシンがあり、ガツンガツンと周期的に振り降ろされるハンマーに対して、シンバルを手で持って回していく。さてここで、なんのためにハンマリングするのか。おそらくドラマーにしても「工場でつくっている」と聞いた時点で、シンバルも工業的に造られていると思っている人は少なくないだろう。もちろん価格帯や想定するユーザーによって、シートシンバルのように板を打ちぬいて成型するというものもあるが、多くのハンドメイド系モデルはキャストシンバルという作りになっていて、今回の場合は素材となる合金をある程度の厚さにし、カップの形状を作った後、炉で焼いた状態のものになっている。これは、実のところ空き地に捨ててある雨ざらしの鉄屑のようなもので、見た目はもちろん、形状もところどころグニャリと曲がっている。

     もしこれを道端で拾ったとしても、これをトンカチで叩いて、あのような綺麗なシンバルの形にすることなど出来るはずがないと思うであろう。そう。シンバル作りに関しては多少の知識はあるつもりだった私も、実は機械的に成型をするのではと、どこかで思っていた。ところが、トンカントンカンやることで、ボウの膨らみを生み出し、円という誤魔化しの効かない形状において、どこから見ても同様のシェイプであると感じさせる形に持っていくというのである。

     ここで面白いのは、このハンマリングというのは、なにか板状のものをたたき出すとかそういうことではなく、あくまで板のある部分をギュッと叩きつけていること。だから、板を持ち、叩いて凹ませて丸く形を作っていくということではないのだ。で、これでどうやって形状を変化させられるのか。板状のものを、下に金床、上からハンマーでガツンと叩けば、それは板のその部分が凹で薄くなる、というのが道理であろう。しかしここにある性質があるようで、叩くことで金属組織に変化が起き、伸びようとする面が生まれて形が変わっていくとのこと。最初聞いたときには、理屈はわかるが、しかし実際にどうすればよいのかわからなかった。というか今でもまだ半端ではある。

     こんな地道なトンカン作業で整形する...しかも、何枚となくシンバルを見てきたこの自分の目を満足させる、円形状で均一にテーパーのかかったものができるのか...?ハンマリングマシンはペダルを踏めば容赦なく稼働を始める。ほおっておけばシンバルはどんどん打たれていく。まずはカップの周辺から円周に沿う形で打っていく。これがどういうことになっていくのか、それはちっともわからないが、まずは言われたとおりに打っていく。しばらく続けていると、なにやらごくわずかながら、ハンマリングがシェイプに与える影響が眼に見えるような気がする、そんな瞬間も訪れないわけではなかったが、それもすぐにわからなくなる、そんな繰り返し。

    早速ハンマリング。気持ちは入り込んでいるが、へっぴり腰。

    グニャグニャとした状態。もちろん手で扱うには普通に硬い。

    段々形ができてくるのが不思議。

     しかしだ、実はここから先あまり記憶がない。没頭していたのだと思う。始めてから1時間ほどしたところで、シライミュージックのトシちゃんが到着し、カメラを構えたりしていた。そして小出社長はこまめに様子を見ながら声をかけてくれるものの、気がつけば昼になり、そして午後には2枚目ができてくるが、これが最後のシェイプ決定がいまひとつうまくいかずしばらく粘る。段々と疲労もたまって来た頃には夕方前になるが、3枚目を炉で焼いてくれているとのことで、それを取り出し冷やした後、またハンマリング。3枚目は、かなりフラットにした。昔のK zildjianやSabianのHHを思わせる形状。それでも妙なうねりができてしまい、それを小出社長が手を入れて修正してくれた。このときの様子、そこはかとなくまんべんなくハンマリングしながら、シンバルが段々と統一された形になっているのを見たとき、あぁこれは陶芸であるとか、なにか美術工芸品の類だなと感じた。小出社長が作業すると次元が違う。まぁ当たり前なんだけど(笑)そう、人の手がその形にしているのだ。なにも手放しで手作り工芸が素晴らしいと言っているのではない。そして、シンバルだけが手作りだなどと言うつもりもない。普段何気なく身につけている洋服だって、人間がミシンで縫っている。イタリアの建造物なんて、今のような技術や道具がなくても、あれほどまでに緻密に設計され建造されていたわけだし。

    ハンマーの形状を変えて仕上げ。

    焼きたて。ある意味神々しい。これは後ほどフラットなボウのライドになっていく。

    洗って冷まして、さぁハンマリング。

    小出社長がやると、みるみるシンバルの形が整っていく。

     今回のことは、物事の奥行きを見抜く自分の力がまったくもって不足しているということに他ならないのだと考える。あれは使いやすい、これは不協だ、あれは良い音で、これは扱いにくい...。そんな自分のわがままだったのか、それとも本当に良い音のシンバルが目の前に現れなかったのか...。今回ハンマリングを終えて、形になったものが2枚ある。そのシンバルをスタンドに置きスティックを当てるとき、自分はなぜだかそのシンバルがどういう音なのかを知っているという気分になる。最初に指定した18インチで1200〜1300gというスペックが、自分にとって黄金比であることは概ね掴んでいたし、ボウをかなりフラットにしてみれば、というような目算もあったにはあった。しかし、少し感触が違う。

     仮定して考えてみると、自分でハンマリングをしている間に、意識とは別のところで、身体や脳がなにかこのシンバルに関する情報を蓄積していたという可能性。それゆえに、私はこれをどう叩くべきかを知っている、などとカッコイイ台詞を捏造してみる。そしてもうひとつ、偶然が重なり、これが自分にとってかなり理想的なシンバルとなって生まれたということ。実際、シンバルにうるさい知人ドラマーに叩かせても、これは良いという人が多い。ビギナーズラックという線もあるだろう。そしてもうひとつ、私の手から超能力が出ていて、シンバルがそのようになったということ。これは単なる自意識過剰。

     ところで、このシンバルはただハンマリングしただけではある。1枚は、裏側を小出社長に削ってはもらったものの、実のところハンマリングしながら「あとはどんな行程で仕上げるのだろう」と思っていたほどであるから、甚だ何か仕上げを意識した行為は行っていない。しかし偶然にせよ、今、自分には手に馴染む2枚があるということだ。おそらく今まで自分が叩いてきたシンバル達の中でもかなりの上位にある。もっともこれがいつまで続くのかはまだわからないわけだけれども(笑)。

    そして出来た2枚。

    一枚は裏を削ってもらい、シャープかつ高域が豊かに。

    <日本という場所>

     小出シンバルには、なにやら日本の匂いを感じる。たとえば地方の飯や酒はその地方で食うのが一番うまい。東京はなんでも揃っているけれど、東京でしか食えないものももちろんあって、それはやはり地方に行っても食えない。小出シンバルが日本の風土...とまでは言わないが、おそらくそれは小出社長の音なのだ。そして、このシンバルは自分の音なのだろう。これは製品ではなく、そういえばトシちゃんはこれは作品なんだと言っていた。なるほどうまいことをいう。しかし実のところなんだかわからないところもあるのだ。今回の体験は、ハッキリ言ってまだ咀嚼できていない。
     ただ、うすぼんやりと感じているのは、日本ということと、自分の手ということ。今までシンバルの実際は、かなりベールに包まれていた。情報はあった。しかし、最後の最後、実際のところどうなのかという感触はいまひとつわかりにくい。特殊なものであり、門外不出の合金の製法、職人による手打ち、2枚と同じものは存在しないというところに、都市伝説や誇大妄想的なイメージもある。そして既製品を買うしか無いという現実。ハンマリングだけ考えても、これだけの設備を使ってこれだけ手間がかかるものであるから、シンバルの値段はべらぼうに安いとすら感じるが、それとてドラマー側からすれば、100枚くらい買って選んでみるなんてわけにはいかない。そして安いからといってネットでの購入を選択すれば、店はキュウキュウ、試奏して買う場所もなくなっていく。楽器というのは特殊なものだと思う。その人間の持っているものを増幅する道具とも言えるだろう。手に馴染む道具とはなんなのか。公園で拾った石ころが、なぜかとっても気に入ってみたり、山の中で拾った木の枝が、なにかとても使いやすいと感じてみたり。手が感じる喜び。身体が感じる充足感。

     空恐ろしいことなのだが、実は自分は演奏するためのシンバルを探しているのではなく、シンバルというフィールの塊のような楽器の裏側にあるロジックに突き当たりたかったのではないか。そして、ここまで道具という言葉を使ってきたが、装置→道具→工具→手というレベルがあったとして、コンピューターはやはり装置なのだが、キーボード→マウス→タッチスクリーンなど入力デバイスが変化し、装置の複雑な機構を意識せずにどれだけ人間が「手」で装置をドライブできるかというところは進化していっているように思う。iPadがベストとは言わないが、あれを使ってる人達が「デバイスが見えなくなる」といっているのはすごく面白い。私は、良い楽器が欲しい、良いツールが欲しい、とどこかで口にしながらも、実は「自分の手」を感じる楽器と、その周辺の体験を無意識のうちに必要と察し、欲していたのかもしれない。

     それが、日本という自分の住んでいる場所でできたのだ。海外旅行から戻ってきて「あぁ旅行楽しかったな〜」と現実逃避する必要も無い。ちょと違う(笑)?既製品の中から選ぶ楽しみもあれば、既製品しか無いと感じる不自由もある。今まで自分は気に入らないものは自分で作ったりすることが多かった。その入口はただ金がなかったことではあるが、いつしかそれが自分にとっての通過儀礼となっていたのかもしれない。シンバルはカスタマイズすら難しいものだ。しかし、少し事情が変わった。シンバル作りが自分達の風土の中に入ってきたとすら感じる。
     これは、奇跡ではないかとすら思っている。いや、正確に言えば国内にもシンバルを作る場所はあった。しかしこのタイミングで、日本において絞りの技術や設備という強力なバックボーンを持ち、金属加工としての冷静で客観的な眼を持ちながらシンバルを扱っている小出シンバルの存在は、奇跡であると言って良いだろう。小出社長、あと300年くらいお元気で活躍して欲しいと願うばかりです。


    <そしてシンバル考>

     人間が楽器をコントロールするのか、楽器を人間に寄せるのか。楽器というのはある種のハードルだ。まず、楽器に人間が馴染んでいかなくてはならない。ピアノにしろギターにしろドラムにしろ、最初はやりにくさを感じながらも、いつしかそれが当たり前になり、そしてその中で感覚が花開いていく。ドラムで言えば、スティックを一定に動かす、テンポや音符によって変化させる、叩くべき場所を、叩くべき時に叩く。手足を同時に、しかしそれぞれに役割を持たせて動かす。そんな訓練をかなり重ねないと、世の中のドラマーのように演奏できるものではない。しかもドラムの場合は伴奏という役柄、状況によっては譜面をみて即演奏という状況も少なくない。音階からはかなり自由ではあるが、これだけアレンジが多様化している現在では、その分いろいろなリズムについて精通し演奏できる必要もある。いや、おそらくドラムをやっていると、そういうことができないと「叩けてないなぁ俺」という気持ちになってしまうのがむしろ自然ではないか。

     で、そうしたことはある程度やった上での話。始めて楽器叩くような人はまず鍋釜でもいい音が出せるようになるのが先。たとえばギターという楽器を聴いていると、あれは手の音がする。要するに手の音。世代的にガッドにハマった自分ではあるが、しかし40を過ぎてもやはり彼の演奏には魅力を感じる。テクニックで煽るようなプレイはもちろんだが、彼の音符表現とサウンドのコンビネーションが素晴らしい。しかもそれはエフェクティヴで演出されたというよりは、手の音を増幅しつつより音楽にマッチしたサウンドだと感じる。

     放っておいても人間の個性は出る。音はその人の音になる。ひょっとしたら素晴らしい芸術家は赤い色を使って青を表現できるかもしれない。そんなことも考えてみるのだが、すべては結果論か妄想か都合の良い解釈になりかねない。そして技術や知識も足らぬものがその言葉だけを引用するのは安易すぎる。まずはこの体験と、この2枚のシンバルを使ってみることの中から、自分はどんなフィールを満喫して、どういったロジックに辿り着くことができるのか。かなり大袈裟ではあるけれど、それほどの感動体験であったということでお許し願いたい。


    <体験をすべてのドラマーに>

     そしていつか、すべてのドラマーがこのような体験をできる日が来ることを望んでいる。料理をして食べることを知る、床を用意し野営し眠ることを知る、身体を動かし疲労と回復を知る、知恵を絞り発想を得たり、それは消費とは少しばかり違う立場を知ることができる。それをするとなぜだか生きることの根っこのようなものや、人間が地球上にどんな風に存在する術しか持たないかということを感じるのと同じように。考えてみたら、楽器屋に置いてある楽器なんてみな初対面でいきなり恋人になろうとするようなものかもしれず、不確定なものに金を出すという意味で消費者が疑念に満ちていくのも仕方ないのかもしれない。音楽は、たとえばバンドやミュージシャンの人となりを知って曲を聴くと、また別の接点が生まれたりする。それは消費や受継の知恵か。演奏者は伴侶を求めるが、それはなぜか楽器屋に売っている。売るのは難しい。話が逸れている。しかしこの話題も実のところ重くて暗い部分があるような気がしてきた。話を戻すと、音楽を聴くというリスナーの視点から演奏者の視点へ。生かされているものから生きるものへの視点。あぁこんな大層なこと自分にもエラく高いハードルだ。しかし「わからない」ということの最大の理由は、自分でやってみないから、もしくはできないからだろう。ロジックにできるかどうか、するべきかどうかはまた別の段階だが、やってみて肌で感じる、身体が知っているということは、最大の叡智なのだと思う。やってもみないであれこれ言っているということは好ましくない状況ではあるが、実は言っている本人が一番その薄っぺらさを知っているものだろう。多くの場合やってみる機会も与えられないし、その機会を得るまでの段取りをイメージすることもなかなか難しい。さて、私は薄っぺらだ。この手で、焼きなました原材料を持ちハンマリングをして、形作られていく時間を共にすることで、ようやくシンバルを既製品として見なくなったのだろう。なんという無知。なんという体たらく。木を見て森を見ず。そしてこの体験はまだ序の口である。こんなことでわかったような気になるつもりもないし、現になんのロジックも湧いてこない。咀嚼すらできておらず、何もつかんでいないことがハッキリしただけのことである。今まで持っていたのはただの薄っぺらい周辺の事柄であり、自分は無知なのだ。でもやっとそうなれたという気持ちもある。自分など何も知らないのだ。それでいい。嬉しいことに身体は何かを手に入れ、いたって充足している。満足というものに近い。そう、諦めなくて良かった。わがまま言ってきてよかった。都合よくそんな風に考えてもいる。

    シライミュージックのトシちゃん。この削るのが難しい。

    そうして出来た2枚。

    かなりフラットな方は、ライドとして知人ドラマー達になかなか好評。自分としてはかなり気に入っている。

     この体験を、何かしらの形にして誰彼に与えてしまえば、それはまた体験の既製品になり、新たな消費側を作るのかもしれない。売るというのは難しいものだな。相手が消費者に成り下がらないように売らないと首が絞まる。あぁまたここに来てしまった。しかしこの感触は、なんだろう、肉を初めて捌いた時の感触に似ているのかも知れない。ゾクリとするが、肉を食べることの意味を肌で知る。ロジックが人間を形成するのではなく、感じることで人間は反応を憶えるとでもいうべきか。どうにか、シンバルを含め楽器を知る機会が増えることを願うし、自分も特別なこととしてではなく、ごく自然なこととして見ていけたらと思っている。

  • お読みいただいた方ありがとうございました。目薬をしてゆっくりお休みください。ナハハ。