makito's voice

2011年10月04日
倦んずあり=うんざり

  • 以下愚痴です。先に断っておきます。
  • 今年はなにやら厳しい毎日である。以前からずっと思っていたけれど、資本主義やら企業、経済、マーケティングなんていうものに対する違和感と嫌悪感の本質が3月の震災以降に顕になってきて、自分がこれからどうしたもんかといろいろ考えた。宵越しの銭など一銭もない状態なので、逃げるでもなくしかし仕事も停滞しているし、まぁせっかくだから山行ったり川を見たりと楽しんだりもしてはいるが、息子の未来に影響がゼロとは言えない状況の中で何とどう戦っていいのかがなかなか定まらない。

     人間というのはおもしろいもので、大惨事が起きたというのに、そのまま居座ったりしている。火事が起きているのに、いや燃えてないよと報道され、やけどが目に見えないからといって、ほらなにも起きてないよという。安全は安全でなくなり、漏れないと断定されたものは確実に漏れていて、飛ばないと言われたものがしっかり飛んでいる。火事になって逃げ惑うのをパニックと呼ぶのも結構だが、逃げもしないのはもはやパニックを越えて錯乱して動けないだけではないか。

     私より上の世代ってのは「発言に責任を持て」と下の世代に散々言って来なかったか?どうなんだ?もう責任のとりようも無いのだろう。自分がやったのではない、皆そう思っているだろう。しかし知りながら黙っていたのは誰なんだ?そしてそれを必要悪としてでも下の世代に歴史として伝えてこず、調子の良い時は金をばらまき、調子が悪くなると、生きるってのは厳しいんだから自分で何とかしろという。もちろんそこには愛があるだろう。強大な力の渦巻く中で社会保障という名目でポジションを手に入れたかのような時代において、それこそが下の世代に対する養育であり愛であると思った面もあるのだろう。だがしかし、なぜ今この状況になってまだ黙っている?それで成り立っていることを知っているからだろう。ポジションと引き換えに同和しているのか。

     もはや日本において「愛」というものは存在しうるのかとすら感じる。いやおそらくそれは輸入されたものなのであって、定着する前に歪んでしまっているし、まぁそもそも社会に対する適当な総合感冒薬みたいなもんだろう。健康に暮らす土壌を持つことも許されず投薬される。まさにブロイラーだ。しかも自分はちょっと良い餌を食べていると自惚れているブロイラーもいるようだ。最近は理念だなどという言葉を振り回す輩も多いが、もちろんその問に対して考える機会を与えられるという面は大事にすべきではあるけれど、それは胸の内にあるものであって経営のために振り回す文言ではない。あるべき心もなく、ただ強壮剤や薬としての経済恩恵が与えられる。うんざりするような社会構造、うんざりするメディア、うんざりする行政、うんざりする一般大衆、そしてうんざりする自分自身。そう、もううんざりなのだ。

     しかし一方で、うんざりというのは、今まで自分が何もしなくても適度に社会変化や経済活性が進んだ時代にいたことで、同じ状況で生きるということをしてきていない自分の耐性の問題とも感じる。他から輸入された方法論である愛というものによって、その他の愛が消えてしまった。山への愛、川への愛、海への愛。それが金への愛だけだ。これは視点によっては観念の世界でもあるのだろうからある意味純粋だ。実際その心地よさも体験しているから、今の状況が煮詰まって感じられる。お金が無いと現実的にはやっていけない、という発言は、正しく今の世代にも伝わっていて、年収何百万以上の旦那を希望しいつまでも相手が見つからず「ただ普通に婚活しているだけなのに」と言わしめる精神構造とまったく同じだ。いやむしろそれを伝染させた根源となっていることを理解していないとすればなおさら性質が悪い。

     変えればいいというのは、それは外ではなく内だ。環境でなく人間だ。今まで、じゃぁ変えればいいと言って土建屋が経済効果を錦の御旗に自然を変え、外のものの組み換えばかりをやってきている。人間が変わればいい。多くのことを知ったのだ。人間はちっとも変わっていない。災害が起きても、避難が行き届かない。現場から離れない。自然とは脅威であるし、万物の成り立ちの解明にはまだまだ時間がかかる。そしてそれはすべてをコントロールするためにあるべきものではないと感じる。

     できるようになってしまえば、なんでこんなことができなくてイライラしていたのだろう、と思い返すことはたくさんある。誰だってそんな経験があるはず。ある意味これは、資本主義であるとか経済戦争の後遺症としての中毒症状とか反動なのではないか。タバコ、酒、車、金、やめてみたらすごくよかった、なんてこともあるだろうし、依存しない冷静さがあれば別にどうだっていいのだろう。でも、おそらく静かになくなることなんてあるのだろうか。反動期というのは避けられないのかもしれないし、その前後に多くの憤懣エネルギーが生まれることも自然なのかもしれない。

     日本を維持できない...たとえば原発がなくなったら生きていけないと決めつけている、前述した、できるようになる前の中毒症状のイライラと文句でしかない。それに耳を傾けている暇があったら、できるようになるべきであるし、そこに力を貸すべきだ。私はアメリカという国にいろいろ問題も感じるけれども、アメリカには自立に対する賛美がある点は見習いたいと思っている。日本には、それが無いのに金と愛だけが流入して薬漬けのような中毒症状も生まれている。

     と、中学生のように言い散らかして自分は何をするのかと。問題はそこだ(笑)