makito's voice
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2011年12月07日
備忘録 〜順序〜

  • ツイッターのログはツイログも含め一応取ってあるのだけれど、うんこみたいなつぶやきばかりではある。ただ、ツイッターは思いついたとき、その時につぶやくことができるし、そこでの反芻や推敲もある。フォロワーの人達からのメンションによって練られる場合もある。で、ちょっと扉が開きそうな感じなので備忘録として。

    学生の演奏聴いていると、どうしたらよいのかっていうノウハウとか方法論にいくまえに、まずうまくなればよいという単純なことを忘れてるような気がする。うまい人にならなくてもいけるんじゃないかという変な隙間を探してるというか

    上手い→良い、といってもいいかと

    言葉の範囲というかね。もっとシンプルでいいような。うまくなるっていうと、ハイテクみたいに思いすぎというか。

    うまくなることに答えがあるのか?というそもそもの考え。うまいと感じる演奏を分析したものはテクニックなり演奏法なりあるけれど。よい演奏ができる→うまい人つうか?

    うまいという言葉はなかなか難しいけど、会話の評価と似ているとも思う

    ある意味、ノルという文化はなくなってきているのかもしれないな。同じ言葉で言われてはいるが、それは陶酔とか心酔というものかもしれない。

    アンサンブルをする時代ではなくなっているのかも。

    というよりも、杉野さんが言っていた、叩いてるけどリスナー側にいる、みたいなものかもしれない。これも解釈の幅がいろいろだけど。

    イケてないということでもいいのかも。知らんけど。

    要するに、下手っていうのは何かってことなんだよなぁ。

    【緩募】下手とは

    ちなみに自分としては「じょうず」と「うまい」は違う。違うべきではないが違って使ってしまっている。

    そもそもウマイとかヘタってのもステレオタイプなわけで、個人的にはそれで自分の中に取り込むことはないなぁ。

    うまいってのは、そのうまいということ自体を創り出しているとも言えるわけで。

    やっぱ味と共通点多いと思うんだよな。ドラム叩く側は調理。食材見つけて食べられる形にして命を与える。高価な食材でマズイもの作る人もいれば、安い食材で美味くて身体にいいものつくる人もいる。主食もあればおやつもある。食べる楽しみも作る楽しみも。

    金銭が発生するから発展する料理法もあれば、家族や愛する人のために作るから成熟する料理法もある。年齢による違いや、体調の良い時に食べるものもあれば悪い時に食べるものも。見栄を張った食事もあれば、地味でも感動する味もある。そして個人の好き嫌いもあればその変化もある。

    いずれどのような動機や経緯で生まれたとしても、その美味が伝承され人々を豊かにしていくことは素晴らしい。現状はそれと反する要素も多いと感じるが。ドラムも、同様にいろいろな音楽の中で奏法が生まれ、それをドラマー達が伝承していっていることに素晴らしさを感じている。

    たとえば料理にチャレンジするのは良いことだが、そこで食材を無駄にするという事態も起こりうる。いくらでも試せというのはある意味においては乱暴で、食材もすべて命であり、それを自らのために実験材料にすることが良いのかどうか。教える、そして教わるというのはそういうことなのだと思う。

    スティックだってシェルだって植物の命であり。金属は命ではないとする人がいたら、シンバルが誕生する過程を知ったら、それがすごいバランスの上に成り立っていることを感じると思う。楽器だけじゃない。音階だってリズムだって歌詞になる言葉だって、みんな伝承されてきたものだ。

    もちろん人類みな平和で伝承なんて生易しいものではない筈で、そこには肉体的文化的宗教的イデオロギー的社会的集団的個人的闘いや軋轢はあったわけで。それを増幅したり相反する者達をつなぐ力をもった存在としての芸術も。芸術は今や鑑賞物かもしれぬが感動は誰の心にも眠っていると思いたい。

    先の事は、命を大切にしろとか、すべては平等、ということを言いたいのとは少し違っていて、その関係性を無視して次の段階に進むというのは、進化となる場合もあれば無謀な冒険や自殺行為的破壊になることもあり、そのリスクは社会においては共用することを拒否されるものもある。

    自分も含めて、常に命を消費してなにかを行なっている。ということをどう考えるか。それはもちろん自由。ただ、それは価値観であるし、その価値観によって行動や発言のクオリティは変わりなにかしらの結果へとつながる。その結果が欲しければどうするか。いや結果だけ欲しがる行動に意味があるのか。

    すべてはその人の価値観か...。うまいへたも価値観によって支えられているのかな。

    よくわからんので書き殴ってしばし離脱ww

    人の意見を読まないで、自分の意識に集中していることが何かを生む場合と、いやしかしふと顔を上げたときに、とっくに浦島太郎状態になっていることも。だからって中身は何も変わらん。ただ表現が変わるだけか。

    自己表現が広告表現でなければならないというのは習慣的に植えつけられた蒙昧で安易な思考だとも思うが、もはや強迫観念までになっているのかもしれない。

    思考の順序を入れ替えるのは大変なことだ。重要なのは順序なのだろう。断片は誰でも正しく持っている。問題はそのプライオリティやヒエラルキー。そこに意志が潜んでいる。

    順序は表現の要素。順序。順番。シーケンス。計画。進行。ストーリー。物語。流れ。流動。変化。自在。即興。順序に表現の本質が潜んでいる。順序を考える。実施する。省みる。推敲。この作業を練習と呼ぶ。練る。練り習う。あぁ面白い。

    表現による価値観の洗脳。だとすると、価値という束縛からの解放が現在なのかもしれない。問題は表現そのものより、それを扱う広告販売や経済的行為によるサービスという名の元に行われる生活支配の束縛。それを束縛と考えるかサービスと考えるかというスレッショルドの変化。それもまた価値観。

  • この日は学生の実技試験をずっと聴いていた日。順序という言葉へ辿り着く。順序を教えるというのはどうしたらいいのか。いや、それはある意味一番にくることだけれど、とはいえそれがいつしか難しくもあり、実は内容を変えずに順序を変えて印象操作をするということが世の中全般に溢れていて、それが感情を支配し、ともすれば価値観と思い込むような状況すらあるように思う。なんなのだこの順序というやつは。誰なのだこれをコントロールしているのは。これはおそらく歴史ではない。なにか重くドロドロとしたものを背後に感じる。
  • 2011年12月07日
    カセットフーBOと焼肉プレート

  • あのですね!ちょっとびっくりですよ!これはオススメなのですよ!ということで書きます。
  • どこの家庭にもあるであろうカセットコンロ。いつどこで買ったものなのか、だれかから頂いたものなのかすら覚えていないという大変に恥ずかしい状態だが、長いこと使ってきた。卓上で鍋をやるときなんかにはやはり便利なものだ。だが、だいぶくたびれてきたのか、なにやら火力が弱い。もう3〜4年くらい前から「なんかなぁ」と思いながら、まぁまだ使えるしそれほど頻繁に使うものでもないという感じだったのだが、最近2年くらいあれこれウオッチしつつ(遅っ)値段が下がってきたので買い換えた。これはやはり子供がいての食卓事情というところがあるとは思う。で、火力が強くて高さが低いものの兼ね合いの中で、4千円台になっていたイワタニカセットフーBO/CB-AH-35という風防付きでフーボーとはなんともなネーミングのものを購入。見た目のカッチョいいやつもあるのだけれど、火力&風防&口コミの評判&なんといっても値段が安かったのでこれにした。で、ついでに焼肉プレートCB-P-Y3っつうやつが千円ちょっとで評判が良かったので買ってみた。我が家にはとても良い鉄板があるのだけれど、油がたまりやすいのでどんなものかと。ハッキリ言って普段はこういうものをほとんど選択しないのだが。
  • コンロは外見も良く、表面の仕上げもなんだかよかった。火を付けてみると今までの倍くらいある。てかたぶんうちのコンロ20年以上前のかも...。息子の要望もあってささやかながら焼肉にしたのだが、これが実にうまい!私以上に味にうるさい嫁ですらこれはすごいと言っていた。特筆すべきは、鶏肉だけでもいいくらいにうまい!このプレートは薄くちゃっちいくらいなのだが、ある意味高温になりやすいのではないか。焼く部分の面積も広い。そして肉や野菜にもよく火が通る。さすがコンロメーカーの商品というべきか。いやはや調理器具に寄る味の差というのは、土楽の黒鍋とかルクルーゼとかいろいろあるけれど、この味で食べられるのであれば、店を頼らずとも良いかもしれぬ。ありがとうイワタニ産業!www

    コンロと焼肉プレート

    テフロン加工がどれくらいもつかな...

  • ちなみに少し前に七輪を手に入れましたが、こちらは炭の手配ができておらず試せずにおります。 正月に餅でも焼きたいものです。