makito's voice
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2013年10月05日
気持ちいい山

  • ツイッターで知り合った山のお仲間に誘っていただいて、山に行ってきました。自分は集まりの1日前に行って、尾根を越えて現地入り。台風の後のせいか、夕方にしばしガスって進路を阻まれたこと以外、晴天に加え安定していました。3000m近い山であんな夜を過ごせたのは嬉しい。とりあえず画像ダラダラ。

    快晴!


    久々の稜線


    ちょっと休憩...


    ちょっと休憩...


    明け方。クリックで拡大。


    某独標でのパノラマ。クリックで拡大。


    下山途中。歩いてきた稜線。

  • 今回はあちこちでキツかった。行動中の冷えもあったけれど、とにかく身体が重い。それほどでもない距離だったが、とにかくのんびり歩いた。そして気が済むまで景色を眺め、腰をおろし、山に寝転び、通り過ぎないように山を歩いた。時間をかけると、山はさらに身体に残るなぁ。
  • 2013年10月07日
    軽井沢

  • 個人的なノスタルジック風のグルメ日記です。すいやせん。
  • 軽井沢に行ってきました。自分にとっては、もっとも親父との記憶があるところかもしれないすね。ここ数年いろいろあって、オフクロが行っておきたいということもあり、自分も自分の息子があの場所にいるところを見たい連れてというような気持ちもあり。とはいえ、嫁も息子もなんや思い出巡りにつきあわされてわけわからんかったろうとは思いつつ。当時、手に入れた土地に何度と無く通った我が家。当時は国道17号と18号、碓氷峠とか通って早朝から車で移動。クーラーも無い時代で帰りの渋滞もひどかった記憶がある。最初の頃は楽しくも無かったし、林の中で過ごすことの気持よさなんてわからなかったが、草を刈りかまどを作ることを憶えたころから楽しくなっていった。その場所はいろいろ様変わりしていたけれど、湿った空気と土と木の匂いはそのままだった。
  • 写真30枚。懐古主義も極まれりだが、実のところグルメ日記のようでもあるw あいにくの雨だったが、昼過ぎに出て姉貴やオフクロを拾って高速をひた走る。2時間で碓氷軽井沢。最後に行ったのはいつだったか記憶も曖昧だが、高速が出来て本当に速くなった。スムーズに到着したこともあり、軽井沢駅近くの八百屋、パン屋、腸詰屋などで買い物してから、レンタルのコテージにチェックイン。ここでBBQという案もあったが、息子が大好きなエンボカの本店にはやはり行かぬわけにはいくまい。いや自分が行きたいんですよもちろん。代々木上原のエンボカも素晴らしく美味しいが、生地はこちらのほうが良いように感じた。生ハム、ピクルス、チーズの盛り合わせからスタート。ブルーチーズの状態がすごくよかった。息子は、生ハムとマルゲリータがあればそれで良いと、なにやら老成したようなことを言うw それにしても、移転する以前の本店の時に来てみたかったという気持ちはあるなぁ。

    手軽なコテージを借りました。台所や風呂もあって便利。

    エンボカ旧軽井沢

    楽しい宴

    ハモンセラーノとイベリコ。黒豚と白豚

    チーズ達。ブルーチーズ最高

    牛蒡のピクルスが何気にうまし

    サラダ。葉っぱが肉厚。

    全部茄子。サワークリームみたいなチーズをつけて

    ワインも呑みますよそりゃ

    マルゲリータ。トマトの酸味を活かしてます

    マリナーラ

    れんこん。こういうのが美味いのがエンボカのよいところ

    クアトロフォルマッジョ。混ざってなくて4分割で良かったような...

  • 夜はコテージでのんびり...できたのかはわからんが、腸詰屋のソーセージが実にうまかった。エビス飲んで就寝。駐車場の切り株にナラタケがうまそうに生えていたが、この時点で特定できなかったので結局そのまま。汁にしたらうまかったろうな...(悔w

    ツイッターで尋ねたらナラタケだそうです。うまそう...でも怖いw

    旧軽井沢は腸詰屋だらけだったが、実際かなりうまい。

  • 朝起きて珈琲を淹れる。思ったより寒くもなく、高原な感じもそれほど無く。昨晩手に入れた食材で朝食。そして思い出の場所へ移動。いろいろと変わっている部分もあったが、記憶が蘇るようでもあり。感慨があるようでもあり、無いようでもあり。親父が亡くなり、失った土地は、知らぬ誰かのものとなっている。最後に来た時もそうだったが、誰かの別荘が建っている。かまどを作ったあたりの石はそのままでもあるようだった。周辺で珈琲でも入れるかと思ったが、どうやら荷物にそのための道具が無い...。結局コテージに忘れていただけであったが、あれこれ偲んでみたり写真を撮ったり。当時は、山の中にいる!という感じがしたものだが、今は別荘も増え、電線が視界に入り、小さな清流も水が枯れていた。車もあちこちに停まっていたり。とはいえ、匂いはそのまま、そして溶岩のような石と腐葉土が混じったような土と、そこに生える植物やきのこは当時のままではある。最近は自分も山登りをするようになったので、このあたりの林ってのは非常に優しい感じの場所だなと思う。

    どこだっけ...

    このへんかしら...

    当時のキャンプ道具と記念撮影

    山に比べると優しい場所

  • ガスっていて浅間山はちっとも見えなかったが、鬼押出し園を歩いてからコテージに忘れ物を探しに寄って旧軽井沢へ。あぁそうそう、途中で渋滞を回避して入った道にパン屋があって、こういう発見は楽しい。旧軽は日曜だけあって賑やかだった。今はなきSONYプラザや中軽井沢の西武が好きだったなぁ。河内庵に行ってみたかったが満席だったので、牛飯やらステーキ丼を。よく食ったなーしかし。そして30年以上前に自分も楽しんだ、らくやきを息子にやらせてみる。ソフトクリームを茶色で塗ってうんこにするんだと言っていたが、仕上がりはチョコレートって感じで案外うまそう。旧軽の通りに入ってすぐ左手の鶏肉屋がまだあって嬉しくなった。ここで鶏肉を買って、あの場所で焼いてカレーにしていた。そのときの、肉を焼く匂い、野菜が煮えていく匂い。これは今でも強烈に自分を支配しているかもしんない。ここは丸鶏も焼いていて、結構繁盛していた。こういう店はいつまでも残って欲しい。帰路につき、横川PAでおぎのやの釜飯。変わらぬ味だった。あぁわさび漬けをもっと食べたくなる。

    鬼押出し園

    懐かしい景色

    これはテングダケ?

    道を間違えた結果見つけたパン屋さん。

    旧軽へ。賑わってました。

    牛すじ。味が濃すぎか。

    ステーキ。ソースがちょっと強いかな。

    らくやき

    鳥屋さん。素晴らしい。

    おぎのやの釜飯。変わらないなぁ。

  • コテージで過ごしながら、当時の記録を残したノートに書かれた自分の言葉をいくつか読んだ。無邪気というか無知というか。当然ではあるが、未来を知らぬ者の言葉。軽井沢は近くなった。相変わらず良い場所であるし、また来るかも知れない。しかし、なんというかもう一度未来を知らぬ者に戻って、新しい思い出を作っていかないといかんなとも思う。どこかに場所を構え、孫の孫の孫も訪ねてこれるようになれたら良いとも思うし、それは別に自分の所有ではなくてもいいようにも思う。いつまでも心地よい日本の場所が残ってくれたらいいなぁと思う。
  • 2013年10月20日
    なんというか

  • 卒業生のドラマーがボストンを旅している。バークリー卒業生の実力やピカソの絵画に圧倒されたとネットに書いていたり。現地の音、原画の力。レッスンや授業でこれを言葉で伝えても伝わらない。来日して見て聞いてもなにか違う。彼は卒業後自分で音楽に深く入り、そして旅に出た。素晴らしい。

    日本の中で「カッコイイ」「すごい」と呼ばれているものを、世界の実力を見た後に、それでもすごいと思えるのなら問題は無い。日本を卑下する必要もなければ、欧米文化を良しとする必要も無い。しかし外に行くと、自分は狭い世界にいたなと感じる時もあれば、閉じた世界の存在に気付くときもある。

    じゃぁ日本の実力が上がればいいんだろ、というのは個人的には昭和的前時代な田舎発想と感じる。そして誰が伝えるのかというとそれを知っている人の代筆ではやはりダメで、やはり原画なり原音を現地で体験することしかないのかもなぁと考えが至ると、なんだか発言の勢いは落ちていくw

    実力の勝負ではなくて、音楽や芸術の豊かさやその源泉である人間の心や躍動や葛藤や諦観や哲学を音楽から受け取ったのかという一点。触れた後のその人間の行動を見れば、ただの娯楽や刺激としての享受か、現実逃避の材料か、感動や人間のあるべき方向、すべからく愛ってなものを指向して生きていくようになるか、そこに透けて見えてくる筈。

    あるものが心に響くには、その土壌がその人の心の中に必要とは思う。自分なりの苦労を重ねた時に見えてくるものであるとか、子供の頃はちっともわからなかったとか。日本ってのは、そういう土壌が心に作られないような仕掛けがあるようにも感じる。これは教育や治世か。アホなのでわかりまへん。

    相手を変える力を持つ行動。

    いやはや自分には全然できないっす。
    しかし、国内外問わずそれを与えていただいた機会は数限りない。

    それと同時に、それに似て非なるものにかけてしまった時間も数限りない。自分の選択の問題ではあるけれど、それが営利を目的としたニセモノに費やす時間が多いのも事実。

    世の中がパラダイスになることは無いだろうけれど、自分は営利のためにニセモノを陳列することだけは避けたい。広く言えば、ホンモノとニセモノもないだろうけれど、そこを話すところから無駄な時間もまた始まっているのかもしれない。と、そんなことを昨日リズケンで談話しながら思ったのでした。

    これって、どこかの国のオリジナル論争みたいではあるなぁ。

    「ボクにもできる!」っていう台詞は、実は良かったのかどうか。それがオリジナルを生む発想なのかということでもあるのかなぁ。
  • 影響力の正しくないもの、営利による作為や意図的な影響のあるものを排除することは、弱さにつながるのかもしれないけれど。思っていることが少し言葉になって良かった。という気はする。
  • 2013年10月29日
    新井先生

  • 足立区立竹ノ塚小学校の同級生が連絡をくれた。

    3年生の時の担任の先生と会うから集まろうということだった。
    その先生は新井先生。

    自分は、生まれてすぐ医者に「この子は3日持たないかもしれません」と
    言われたらしい。母親はいろいろ食事など気を使ってくれたらしく、
    いまや3日が49年にも伸び、もうすぐ50。日々、オヤジやジーチャン
    よりも長生きをし始めている。感謝である。

    子供の頃は身体が弱かったようで、よく病気になっていた記憶がある。
    食物にも好き嫌いがすごくあった。というか気持ち悪くて食べられんかった。
    なんの話かというと、新井先生は体育の先生で、自分のクラスが初任だった。
    快活な先生だったと覚えている。体育の時間に、足は遅い、跳び箱も飛べない
    運動神経ゼロな自分に、ゲキを飛ばしてくれたように覚えている。

    そして「今は体育が苦手だけど、オトナになったら体育の先生になる
    なんてことだってあるかもな」というようなことを言っていたのを
    覚えている。その時は、そういう慰め方があるのだなくらいに受け取って
    いた。実際、その頃溶連菌性肺炎なんかにかかって長く休んだ覚えもある。

    卒業式の日に、その先生は「自分が初めて持ったクラスでしたが、すごく
    びっくりしたことがありました。授業中に、立ち上がって"変身!トゥ〜!"
    とやった生徒がいたのです」→一同爆笑→「それは山村くんでした!」→
    みんなに見られて恥ずかしいし泣きそうな自分。

    そんなこんなで、良く覚えています。

    最近、よく思うのです。自分がドラム講師とかやっていて、
    「オラー!テンポ◯◯◯でたたけ〜!」
    なんてやってることに。体育そのものではないけれど、走るのも
    同学年男女含めてビリ、運動からっきしダメな自分が、多少なりとも
    身体を動かすことを教えているなんて、こりゃ奇跡だなと。

    新井先生に会ってこれを伝えるのが、少し楽しみです。
    先生はすっかり忘れていたりして。でも、
    変身!トゥ〜!とやったら嫌でも思い出してくれるかなぁ。