makito's voice

2013年10月20日
なんというか

  • 卒業生のドラマーがボストンを旅している。バークリー卒業生の実力やピカソの絵画に圧倒されたとネットに書いていたり。現地の音、原画の力。レッスンや授業でこれを言葉で伝えても伝わらない。来日して見て聞いてもなにか違う。彼は卒業後自分で音楽に深く入り、そして旅に出た。素晴らしい。

    日本の中で「カッコイイ」「すごい」と呼ばれているものを、世界の実力を見た後に、それでもすごいと思えるのなら問題は無い。日本を卑下する必要もなければ、欧米文化を良しとする必要も無い。しかし外に行くと、自分は狭い世界にいたなと感じる時もあれば、閉じた世界の存在に気付くときもある。

    じゃぁ日本の実力が上がればいいんだろ、というのは個人的には昭和的前時代な田舎発想と感じる。そして誰が伝えるのかというとそれを知っている人の代筆ではやはりダメで、やはり原画なり原音を現地で体験することしかないのかもなぁと考えが至ると、なんだか発言の勢いは落ちていくw

    実力の勝負ではなくて、音楽や芸術の豊かさやその源泉である人間の心や躍動や葛藤や諦観や哲学を音楽から受け取ったのかという一点。触れた後のその人間の行動を見れば、ただの娯楽や刺激としての享受か、現実逃避の材料か、感動や人間のあるべき方向、すべからく愛ってなものを指向して生きていくようになるか、そこに透けて見えてくる筈。

    あるものが心に響くには、その土壌がその人の心の中に必要とは思う。自分なりの苦労を重ねた時に見えてくるものであるとか、子供の頃はちっともわからなかったとか。日本ってのは、そういう土壌が心に作られないような仕掛けがあるようにも感じる。これは教育や治世か。アホなのでわかりまへん。

    相手を変える力を持つ行動。

    いやはや自分には全然できないっす。
    しかし、国内外問わずそれを与えていただいた機会は数限りない。

    それと同時に、それに似て非なるものにかけてしまった時間も数限りない。自分の選択の問題ではあるけれど、それが営利を目的としたニセモノに費やす時間が多いのも事実。

    世の中がパラダイスになることは無いだろうけれど、自分は営利のためにニセモノを陳列することだけは避けたい。広く言えば、ホンモノとニセモノもないだろうけれど、そこを話すところから無駄な時間もまた始まっているのかもしれない。と、そんなことを昨日リズケンで談話しながら思ったのでした。

    これって、どこかの国のオリジナル論争みたいではあるなぁ。

    「ボクにもできる!」っていう台詞は、実は良かったのかどうか。それがオリジナルを生む発想なのかということでもあるのかなぁ。
  • 影響力の正しくないもの、営利による作為や意図的な影響のあるものを排除することは、弱さにつながるのかもしれないけれど。思っていることが少し言葉になって良かった。という気はする。