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2014年04月26日
50歳
過日、50歳になりました。この数字は大台ということでもあり、半世紀という数字でもありますが、自分にとってはまた違った意味がありました。自分が高校生になった春に、親父牧美は病院で亡くなりました。早かった、早すぎた、周りの人がそうやって死を悼む中に、祖父も49だか48だかでやはり病気で亡くなったという言葉がありました。ある時から、ひょっとしたらそういう家系なのかもしれないなぁとか、深刻にというほどではないのですが、なにやら感じていたのも事実でした。他人からすればある種のナルシズムでしかないのでしょうけれど、自分はもともと身体が強くはなく小さい頃はよく病気をしていたので、まぁあながちあり得ない話ではないなと感じてみたり。
ここ数年、いろいろでした。震災の後のシビアな感じ、特に原因も無く体調が悪いなど、無駄に病院や検査ばかりしたようにも思います。仕事の変化もあったし、40代から感じていた生きる土地を変えたいという思いや現実の生活。資産などあるわけもなく、これで仕事なくなったら悪いことでもするか、おとなしく野垂れ死にではあります。ま、これはいずれ起きることでしょうけれど(笑)ま、そんな感じで自己暗示もあったのかもしれませんが、楽しい面ももちろんありましたが、結構鬱々とし、また憤りに満ちたりもしておりました。
昨年49になったときに、これで親父の年齢だなと思いつつ、今年はついに50です。あぁ50歳。オッサンもオッサン、ジジイじゃないすか。まぁ仕方ねぁなと。で、50になる時には、なんか企画してライブハウスで飲みまくるとか、そんなことが頭をよぎったりもしましたが、最近は自分も盛り上がる元気も無く、それよりも山に行って静かに過ごしたいとい気持ちもありました。言葉にするのが面倒なのでしないのだけれども、いろんなニュアンスの中で、結局3月の月末はなにやらドラムセットのメンテやチューニングなどに費やしておりました。で、山に行く感じでもなくなり、ちょうどこの頃、ライブの途中でケーキを頂いたお祝いしていただりもして、なんだかもうお祝いされちゃった感もありました。以前からシライとしみつが、27日は仕事で東京に行くので夜に呑みましょうよと言っていたので、まぁ家族ととしみつで西新井のとある飲み屋に行って生ハムを食いたいと思っておりました。
3月27日は、13時から17時まで西新井ケンスタジオでソナーのヘッドテストとチューニングをしようと思っていましたが、車はあれど、なんだか車の鍵がなかったので、歩いてシンバルだけ持っていって動画を撮ってみたり。としみつとは西新井で待ち合わせだったのだれけど、久々にリズケンに来ちゃいました、ということでスタッフに紹介したり、10年前にレッスンに来てたことを話したり。で、このとき、としみつの顔がすごく疲れていて、なんだか禿げそうだな...大丈夫かな、忙しすぎるんちゃうかとか思っておりました(笑)
嫁とは西新井の駅で合流するということになったいたのだけれど、電話したらちょっと先に行ってて、というので、ブラブラ歩く。そして某飲み屋に到着した時に、としみつが「こういう住宅街とか住んだこと無いんですよねぇ」とか言うので、ここは関原商店街と言って、結構有名なんだよ、あぁ、ときどきライブやってるカフェクレールってのはここの先なんだよと返答。すると、なにやら顔の表情が一変したとしみつが「そ、そのカフェクレールってところに来いっていう命令がきてるんですけどっ」...はぁ?いや今某店に来たし、ここで飲みたいんだけど...と思いつつ、どうやら自分の言葉に乗って何かを言ったのではなく、あぁなにか仕掛けがあったのかと。多少観念する気持ちに似たものを持ちつつ、これからなにが起きるのかと考え始めておりました。
その後、18時半くらいから24時くらいまで、私は泣きべそをかいておりました。カフェクレールに向かう途中に、事の次第を少し確認しつつ、店につくと、窓越しに中野の顔が見えました。あぁ...なるほど...あれ...義父母やおふくろや姉貴もおるやんけ...矢堀に大高両氏...あれ、あの方も、そしてこの方も...うああああ...。嫁が仕掛けてくれたサプライズでした。こうやって書けば、いやいや気付くでしょう普通、とは思うでしょうし、自分も以前サプライズを企画したことがあるので、そういうことを考えなかったわけではありませんが。自分が閉じていたのはありましたか。たくさんの料理と酒が並び、花束やらケーキやら、なんとシンバルやら...そういったものも嬉しかったですが、心のなかでいろいろと気にかかっていた岡光くんや村田さんが後から入ってきた時には、いやぁ、泣きました。なんだかよくわからんのですが。
観念した、と書きましたが、まさに観念した気分でした。親から先輩から後輩から元教え子から息子まで。挨拶もろくにできず、泣きべそジジイでありました。50歳になって、赤ん坊になったようなものでした。誰にも嘘つけないな、と。ごまかして生きても、ここにいる人達はそれを全部知っている、と思い知らされつつ、そして人がいてくれたんだよなぁと。49までにやりたいことはやっておこうと思いながら、幸運にも自分が予定していた以上の出来事が起きてくれた人生でしたが、もうそういうことを考える日々は終わりということでしょう。そして、この日自分にできたことは、見てくれとか格好付けとかあるわけもなく、息子の前で泣いているオヤジでありました。
としみつ:3/27に仕事で東京に行くんですけど、夜なにしてます? → 俺:えっ?山に行ってるかも。気を使わなくていいよ → としみつ:えっ?....あぁGoogleカレンダー見てわかりました、すいません、山に行くんですか? → 俺:(なんだ誕生日とか関係なさそうだな)まだわかんねーや....こんなメールの会話から始まって、当日リズケンからカフェクレールに連れてくるというミッションを託された白井としみつ氏は、本当に困っていたようです。まぁ困るよなぁ。自分の性格を考えたら、普通不可能と判断するだろうし。終わってから、あぁそれであんなに疲れた顔してたのかと納得し、その後別の機会にあったら、いつもの元気な顔に戻っていました。多大なるご苦労をおかけしました。
翌日は、車に積まれた食材や酒、道具、タッパなどを見て、その準備の凄さにビビりました。その前の1週間近く、嫁はバイトなどを休んで、仕事に行ったように見せて、義父母の家でずっと料理をしていたようです。ちょうど息子が具合が悪くて、ジジババのところに預けながらも、ときどき様子を見に行こうとしていたり、車を借りていたりと、よく隠密に進んだなと、後から後から、あぁあのときのあれはとか、あのときのこれが、とか回想することしきり。息子も、とーちゃんに言わないようにと言われて、結構気を使っていたようです。いやもう感謝以外のなにものでもありません。
なによりあの場に来ていただいた方々には、厚く御礼申し上げます。個人的なことのためにお時間を割いていただき恐縮です。本当にありがとうございました。
先に帰られた方、後から来られた方もおられましたが、中締めでバシャッ!ありがとうございます。
貴重なシンバルを授かりました。ひどい顔ではありますw
村田さんと
みなさんともっと話して写真を撮るべきでしたと反省...。御存知な方は御存知な3人。
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