makito's voice

2020年03月18日
コロナ戯言

  • コロナなんて誰も歓迎するわけもなく、いろんな騒動に辟易する声もあるけれど。最初は悲鳴やらヒステリックから始まって、しかし現実ヴァイラス相手にはどうにもならんことが定着してきて、ベストな解やドラマのような解決法も無いこともわかってきて、なんだか肝が座ってきた感じに。そうしていろんなトライアルの中で、最初はそんなん無理と思っていたものを他者がやってのけたりして、次の展開や、変化に対して意欲が湧いてきている感じ。

    こんな言い方をするとすごく嫌味な感じになるのかもしれないけれど、浮ついていたのが収まって、追い詰められて発狂でもなく、叡智を向かわせる感じになっていくのがなんというか可視化されてみたり。

    そもそも、今までが異常という人は多いが、そんな人達も今回はどうにもならない悲鳴をあげていたり。なんだかんだみんな裕福に暮らしていて、既得権益な気持ちは根っこに張り巡らされている。

    でも、そもそも誰のものでもなく、誰の支配でも無い。風が吹けば飛ばされて、水が押し寄せれば流され、地面が崩れれば落ちていく。担保とかトレードオフとかあるけれど。緻密に組み合わさった社会の思惑に寄って成立している椅子取りゲームも、それはあくまで人間社会の中の椅子でしか無い。もちろんそれが文明というものだろうけれど。

    あぁすべてに通じる座れる場所、眠れる場所とは、一体どこにあるんだろう。それが涅槃なのかな。

    時々、境界にいることを感じるときもある。いつかひょっとそのラインを越えることもあるのかもしれない。誘われるのか、自分で越えるのか。

    肝が座らない。肝を座らせないようななにか催眠術でもかけられてるのではないかと思うほどに、今の世の中はなにか取り憑かれたようなものも感じる。無論自分も他者から見たら与太者であろう。

    目が覚めるキッカケは、正義でも芸術の美学でもなく、結局は生命維持に対する本能なのかもしれない。それは美学をモットーとしたい自分としてはいささか残念な真理だけれど、だとすれば、シリアスでもコミカルでもシニカルでもボタニカルでも←、生存本能の顕れを含んだものが、グルーヴなのであろうし、それはもう生命と生命が感じるものなのであろう。

    コロナは凶悪でもないように見えるものでありながら、社会を封じ込めている。これ、ある意味では現政権と似ている。恐ろしい危機の手前のようでいて、社会はどんどん封殺される。これ、あの人のやり方にそっくりだ。結局、社会に絡め取られた人間は何に弱いのかを、知り尽くしているのかもしれない。

    今回、動けない人ほど、社会に絡め取られているのだなというのは見ていてよく思う。普段はそうでない言動であったり、あとはフリーランスというものは、雇用形態としてフリーではあるが、社会にもっとも密着した毛細血管のようなものであり、一匹狼などではないことが、よくわかる。このあたりはいろいろ疑問を持っていたが、なんだか解決したようでもある。

    本来のフリーランスとはなんだろう。フリーダムでも、涅槃でも無く。

    自由を装った、自由人モドキも多い。いやそれは別にそれでよいのだし、自由人という制約の中で安心しているならば、筒の中で眠る穴子のようなものであろう。

    安定、安心することが自由なのか、自由であれば安心は要らないのか。自由でハイリターンでありながら安定、安心はそもそも無いと思っているので、大抵こういうことはもう誰かと意見が合うこともなく、定義も適当であり矛盾だらけでもあると。

    精神の開放という言葉も、もはや宗教か妄想の域になりかねないけれど、精神が開放されてアナグラに閉じこもる人もいれば、閉ざされて大海原に飛び出す人もいて、自由だと言い張る人の惨めさや豪快であると誇る人の矮小さを考えれば、開放は人の目や欲も含めた、自分の考えからの離脱だとなると、これまたよくある安直路線になるので、どうやら到底諦念には程遠く、結局はこうして書いてみて頭の中を俯瞰してみて、すべて忘れて次に行くといういつもの手順なのであろう。