2011.08.23〜24 和歌山・高野山〜有田川 その1

高野山から有田川を下り、生石高原を抜けて歩いてきました。まずは歩くに至った個人的前置きから。

当初3日の予定が2日で高野山から海南駅まで行くことができました(クリックで拡大)。


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和歌山・有田川を下る
〜その1「歩くということの個人的理由」〜


 僕らの世代にとって、20代の頃は特に、車というのがひとつのステータスだったと言ってもいいと思う。初めて買ったドラムセットを人目を気にしながら友人と電車で運んだ貧乏学生だった私には縁のない話だが、スポーツカーを乗り回す大学生というのもいたわけで、ベンツやBMW、ボルボやアウディは「カッコイイ」ものと言えたと思う。そんな高級車はともかく、ドラムをやっていたこともあり車は必需品、なんだかんだで知人の車を借りたり、中古のシビックシャトル、ステップワゴンなど乗ってきたけれども、20代後半にはどっぷり車に浸かっていたように思う。

 当時は駐車違反も酒気帯びも緩く(なんてことを言ってはいけないけれども)、ライブをやったら打ち上げ、そして電車なんて無い時間であり、楽器も満載で移動。まぁそんな演奏事情や仕事関係だけならともかく、デートするとなれば車じゃないとね〜なんてことにもなり、ちょっと近くのスーパーに行くのも車、仕事に煮詰まると車があるから楽器店やパソコンショップに行ってしまう、そしてラーメン食いに行くにも車...。誰かが車を持っていればそれに群がってみんなで行動する。それはそれで楽しかったし、つながりもあった。

 しかし、駅まで歩くのがかったるい、ちょっと時間を稼ぎたい、体調が悪いから車で...と動く個室を使いたくなり、段々怠惰にもなる。もちろんこのあたりは個人の問題だが、車を所有すると、メンテナンスが気になり、車に積んでいる楽器の盗難に気を使ったり、1週間に2度もレッカー移動されたり切符切られたり、ガソリン代、保険、税金など、なかなかなものである。まぁそれは必要経費ではあるわけだけれど、便利になれば、不便を嫌いになる。渋滞、駐車場が無い、公衆電話が反対車線にばかりあるなどの不便さに、車を使う便利さが勝るとは限らない状況も出てくる。事故に対するリスクもある。幸運なことに大きな事故を起こしたことは無いが「この運転を繰り返していたら人生ダメにする」と思うことが無かったとは言えない。

 とはいえ車は便利である。外環ができ長野へも高速がつながり、軽井沢にもひとっ飛び、京都や四国に車で行って好きなだけ徘徊する。そんなことも飽きるほどしたと思う。ところがだ、車というのは風景が一瞬にして流れる。あっ今綺麗な川が見えた!向こうに山が!今の店なんだった?おわっトイレ過ぎちゃった...。そしてデジカメで写真を撮るようになってからは、いちいち車をとめて、通り過ぎたところまで歩いて写真を撮ってまた発進、また停まってまた発進...自分でやってることにくたびれながら、あぁ自転車だったらいいのに...なんて思ったり。

 で、自転車で動いてみると、これはなかなか快適。しかしパンクとか坂道とかっていう面も無いことはない。そして、自転車もスピードを出して機動性を発揮したくなるのが道理であり、結局のところ風景は流れていく。

 さて自分に子供ができる少し前に、車を手放した。それは概ね私の人生におけるひとつの転機であり金銭的な都合もあったりはしたのだが、そこで車中毒から抜ける苦しみが3年くらいあった。移動で稼ぐ仕事量は減るし、効率が良いのか悪いのかわからない中で、とはいえ電車で移動することの時間の確実さ、駐車場を気にしないこと、いつでもトイレに行けること、駅周辺にはなんでも揃っていること、携帯やノートパソコンでスタバにでも入ればずいぶんと気分のいい仕事場になること、というメリットは有難かった。演奏仕事の時は車を借りることができるので、そのおかげで成り立っているには過ぎないのだが。

 そして、最近になって始めた山登り。これも、車があれば夜中に登山口まで行ける。電車では、始発でも丹沢や奥多摩となればその日に歩ける時間はかなり少ない。実際家から登山口まで3時間以上はかかる。しかし、車で行けばそこに戻らなくてはならないから、ピストンや周回ルートばかりになる。そしてクタクタになってその後電車の中でビールを飲むお気楽さは無い。
 そうして歩くことが中心になってくると、頭の回転がちょっと変わってきた。歩くというのは、実は頭の中が整理されているのではないかと思う。仕事場で机に向かって「仕事が進まない〜」と悶々とするよりも、移動時間にぼんやりイメージを固めておいて、仕事場についたら作業にとりかかる。まぁ結局同じようでもあるし、かえってメリハリがつくようなときもある。

 長い前置きだなぁ我ながら。そしてようやく「歩く」ということについて。山を歩いていると「あれ、こんなに歩いたのか〜」と思うことがある。電車やバス停でできるだけ登山口に近づきたいのは当然だが、だいたいそういう場所のバスは本数も少なく、結局は歩いて登山口まで行って、そっからいよいよ登る、なんてこともたいして気にならなくなってきた。そもそも家から出たら登山開始だし、家に帰るまでが登山なのだ。早く着きたい気持ちもあるが、じわじわ近づく楽しみもある。時間がかかるからといって疲労がたまるばかりでもない。山用のザックは背負いやすく便利で、日常でも非常に助かっている。そしてアウトドア用のウェアやシューズの機能性も高く、暑かったり寒かったり雨が降ったりしてもダメージが少なく、徒歩であることの残念感があまり無い。むしろ自由さを感じる。

 歩く、というのは実は一番自由なのかもしれない。時間制限さえなければ。その時間というものについても、実は自分の小さな頭の中にある都合とか見栄とか損得勘定みたいな、根拠があるんだかないんだかわからないロジック風感情だけかもしれない。車に乗っている方が歩きより勝ち?便利は裕福で不便は貧しい?先に着いたほうが勝ち?まぁ実際歩くのは疲れるけども(笑)そして、交通機関の都合というものもある。どこそこまで電車で行って、何時のバスに乗り継いで...そもそも歩くと決めていれば、何時にどうしたっていいのだ。自分のペース、自分の感覚、自分の行きたいところ、自分の立ち止まりたいところ、大きな枠として時間と場所を設定しておけば、その中で最大限自分のアンテナが触れる行為に没頭することができる。無論、行き当たりばったりにはそれなりの装備も必要。雨、風、温度、食糧、就寝など方法論と経験があることは前提として。

 さてそんなわけで、前から観てみたかった和歌山の有田川を歩いてみることにした。下流から登るか、上流から下るか...。和歌山から入ってというのも良さそうだったが、地図を見ていたら高野山近くから有田川の源流が始まっていた。そして川沿いに進み、生石高原というところが魅力的だったのでそこを経由できたらと思った。そして、先日テレビで見た農家の方もこのあたりであることがわかり、ルートは概ね決まった。あとは行って歩いてみてペースを測りながら計画を修正すればいい。困ったらバスもあるだろう。別にギネスに挑戦するわけでも無い。元気があればハードルを上げればいいし、泣きそうになれば下げればいいのだし。ふふん。

 今年の3月に延岡に行った時、バスで祝子川に行き、キャンプをして街に戻ってくると、地元に住む親戚は「バス!?歩き?ようやるわな〜」と笑っていた。今回生石高原に行く途中でも「はぁ?歩き?普通みんな自分の車で行くもんですよ」と笑われた。しかしやはり、徒歩のスピードだから見に沁みてくる風景、風、太陽、温度や湿度、匂いというものを満喫できた。もちろん歩くのは充分に辛かったので、負け惜しみが半分と思ってもらってもそれは決してハズレではないけれど(笑)


(その2 〜高野山から有田川〜に続きます。以下、予告画像。)

早朝の高野山

大門からの景色

林道を降りていきます

和歌山の山と川

( 2011/08/29 )