makito's voice |
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![]() 戦争にすらなっていなかった。お盆にこの言葉を受け取る。 火に飛び込む虫を見て、それを彼の本望と思うか、愚かな虫と観るか。 彼は立派だったと。言葉の使いっぷりと、それで片付けてしまう思考回路。いやそうする他なかったであろうことでもあり、むしろ達観なのかもしれない。 愚かな虫だと言いながら、その虫を利用する人間、その虫であることを強要する人間もいる。 望まぬ事態と、それによって起きた心の隙間を埋める言葉や思想。言葉は記憶を塗り替え、思想は心を置き換え、いつしか変容した言葉が史実を作り出す。それを利用した洗脳や煽動。 それは悪意によるものでも、作為でもなかったのかもしれない。仕方のないことだったのだと。 では、世代が変わって今はどうか。 愚かな虫であったことを認め、虫として豊かに暮らす方法を考えるか。 * * * 自分が山に登りながら、川や海で遊んだり釣りをしながら。土が踏み固められ、道が荒れ、ハリスや針を何度も川に残し。海に潜ればそういった残骸を発見し、自分も落としものをして要らぬものを残し、珊瑚をただの1本も踏んでないなんて言えない。 生きるためなら仕方ない。人間の生態とは本来そういうものだ。自然は弱いものではないし、本来毒を内包し、自然の力、災害の前には人間は小さなものだ。 無知無学にしてハリボテの言い訳論理ばかりを見につけ、自分の感覚を過信して己を尊大に感じることでようやく愛とファンタジーを語りながら、強者弱者の隙を見つけては罪のない一般市民を振り回しながら罪を犯し自己を招く。ひとたび事故が起きれば、それまでに浴びせられてきた注意勧告に対する言い逃れが先に出て、自らの存在が無くなれば、誰が世の中を動かすのかとでも言いたげである。 小遣いをやっていただろう、もらえなくなっていいのか。どこまで行ってもその程度の関係性でしか他者を率いることができない。協調と協力の理念に欠け、同じ情報を共有して行動するということが無い。 芸術も文化も、金の次、そしてなにより尊大尊厳なる自己肯定の次となる。他者に学ぶということができない。他者を認める行為に見えるものも、価値を見出す自己能力の証明としてであり、本質的にそれに習い学ぶという姿勢とはかけ離れる。無論、ではいったい芸術や文化が、どれほどの理念で生まれたものであるかというのはまた別の議論でもあろうけれど。ただ、芸術や文化を、金勘定に換算し、地位や名誉と結びつけることが「理解」だとは微塵も思っていない。 他者が自分より上であることは、かろうじて保っている自己均衡の破壊につながり、瞬く間に暴君になるという自己制御を失った動物。 謝罪よりもむしろ反省ができないという民族。状況が押し寄せてもなお行動を変えらないという。過去から学べない、いやむしろそれを拒否することへの挑戦なのか。火に飛び込む虫。 いっせいに海に飛び込む動物の行動のようなものか。 |