makito's voice

2006年07月21日
諦観

  • 東武東上線の事故。母親が子供を連れて踏切をくぐり、電車にはねられ母親は亡くなり子供は重体。気の毒な事故だ。とにもかくにもご冥福をお祈りしたい。我が町竹ノ塚で起きた踏切事故とは事故の状況が異なるけれど、開かずの踏切というものについて諸々考えさせられるものです。竹ノ塚では、新しく歩道橋ができ、屋外ながらエレベータも設置されている。踏切は全自動化されたが、相変わらず係員は一日中踏切で車や自転車、歩行者の交通整理をしている。しまりかけた踏切に自転車に乗って猛然とダッシュする人は多い。
  • 今日の事件を聞いた直後から時間が経つに連れ、次第にいろいろな考えが湧いてくる。踏切というものが危険であるという認識が薄れているのではないか?モラルはどこへ行った?ズルをするなら狡猾さも必要なのではないか?もちろんこの考えが本論にあるべきではないけれど。そもそも、子供の手を引いて踏切をくぐるというのはどういうことなのか。もちろん、子供がトイレに行きたがったとか、なにかの時間に遅れ焦っていたなど、察することもできる。しかしだ、最近電車に多く乗るようになった私は、最近の中年以降の女性のマナーの悪さに辟易としている。多くの人が順番に並んで乗車を待っている状況で、横から割り込み下車する人の流れに逆らって車内に飛び込み席を確保する。大きな声で「こっち空いてるわよ」と仲間を呼ぶ。あの時代の女性は男尊女卑の時代で虐げられてきたのかもしれない。大変な思いをして子育てをし、いつしか子供が自立し、余裕ができて昼間からフレンチ食べながら井戸端会議をしていらっしゃるのかもしれない。しかし、どう考えてもみっともない。先日もとある車両の優先席に自分達の子供を座らせ、お年寄りが来てもそのまま。無論、女性だけの話ではないかもしれない。50〜60代くらいのサラリーマン風の男性が、優先席に大きく幅をとって座る。狭い隙間の前にお婆さんが来てもそのまま。頭おかしいんじゃないだろうか。
  • たとえば、行列の中で順番を待っているとする。仕方ないと思って並んでいると、誰かが割り込んだり、係員に文句を言って列とは関係無しに進んでいったりすると「あれ?どうなってるの?こっちは並んでいるのに?」という思いが出てくる。もちろん、交渉してなにかが変わるのであれば、積極的に行動を起こすべきではある。ただ、ズルをして得をするという行為を心から喜んでいる、という風潮があるのではないか。仕事で手を抜いたが給料は同じ。授業に出なくても単位がもらえた。能力がなくても金もらえた。払わないでいたら免除された。ネットで不正にダウンロードしてソフトやデータがタダで手に入った。こんなことって、生きていく上で頻繁に起きる事柄だろう。自分だって随分手を染めている事柄ばかりだ。しかし、こんなことが「メリット」だったり「裏技」だったり「生きていく知恵」なのだろうか。本道は何なのか?自分が能力を見につけていくこと、なにかに打ち込むこと、そうした行動から滲み出る人間性というものが大変見えにくくなっている。中身や能力を評価したり、芸術や神秘的な力を理解する力が無くなっているのかもしれない。話は飛ぶけれど、資本主義の定義が変容しすぎなのか。良い街、良い環境、良い生活、健康な人間。それ無しに「資本」なんてあり得ないのではないか。CMやドラマ、本に描かれた世界を妄想しながら現実逃避する...。そろそろ諦めて現実を見る頃なのだろう。あ、これは俺の話か(笑)時代は弱肉強食を含めた自然環境や摂理との闘いから、人間社会の中の闘いを仮想敵としたモチベーションの維持に移っているのかな。自分としては、自分の欲のためにではなく、人間社会のルールが正しく機能するためのマナーを見直してみたいと感じる。
  • この件とは別ではあるんですが、しかし最近の東武線(伊勢崎線)の運営はどうも良くないなぁ。北千住駅の建設にしても、最近の車両案内の掲示板の設置とか、なぜ利用しにくさばかりが増えていくのか。