makito's voice

2011年10月04日
M.N その後

  • M.Nが教則本&DVDを完成させた。編集は村田誠二氏。これについて、ものすごく自分視点の日記を書こうと思う。あくまで個人視点なので、ファンの人が読むとシラケるだろうから名前は伏せとこう。まぁ個人サイトの日記なのでご容赦を。
  • この作品は、ツイッター上でも大変な人気っぷりになっている。対談にも呼んでもらったり、折に触れて様子を聞いてもいたのだけれど、見本誌を送っていただいたので、まず本の方を頭から終わりまで読んでみた。とにかく思ったことはといえば。
    ♨ あぁなんだか懐かしい気分だな〜 ♨ 

     ということだった。作品のバランスの良さでこんな合点がいったというか、気持ち良くなったのは久しぶり。やりたいことが頭と身体に充ち溢れていて、作る喜びに包まれている。自分視点での発言をのびのびとしていて、点と点を結ぶような導線を示唆したり今までに無いコンテンツのパッケージを作る意欲が感じられる。手前味噌な話であり比べるものではないが、初めてドラマガの特集で自分名義で文章を書いた時の感じを思い出した。というより、あの空気が蘇ってきたという感じ。

     さて、今年の1月にこんな日記を書いた。 思い出深い日だった。この日、豊橋からシライとっち店長、そしてM.Nの3人で初めて集合し新年会よろしく談笑した。この店はたまに行くけれど、自分にとってちょっと大事な、村田氏との大きな思い出の場所でもある。ちょうどM.Nに参加してもらったフォトドラムやフィール&ロジックなどの連載が1年を迎えようとしていた頃だったが、ここで呑みながら村田氏の仕事の変化について話しがあり、内心かつてない落胆と動揺を感じつつ、とはいえ力なく笑うしかなかったのを憶えている。そんな場所ではあった。

     その時の悔しさに似た思いは、ある意味その後「もっとドラムがうまくなる7つの最強プログラム」を作ったときに昇華された。村田氏とのあの本の制作は、フットワークの特集〜オールラウンドリズムセミナー〜どらマジ〜フィール&ロジックなど自分が打ち出した路線の最後のロケットのようなものだったのかもしれない。ちなみに黄色本は3年連載したオールラウンドドラミングセミナーを特盛にしたようなものかも。ああこれ自画自賛ではなく、そういう過去から現在、そして未来への流れ、これは浅草重鎮N氏が言っていたことでもあるんだけれど、今回そんなものを連想せざるを得ないということね。それが嬉しかったのですよ。

     この夜、教則モノということについても話があった。諸手を上げて賛同はしない。今こんなことを言うとズルイけれども、蓋をしておいたほうが飛び出すときの勢いは強くなる、そんな面もある。自分もそうされたことで結果が良かったということもある。

     あれから8ヶ月。速いペースで制作が進み完成したようだ。あぁやりたかったんだねこれが。これをやりたかったのか。そしてずいぶんとうまいこと完成させたね。ある意味ずいぶんと昔に、自分がドラマガなどの雑誌に持っていたイメージというか、総合的かつ楽しく魅せるドラム解説というもののワクワク感がより端的になっていると感じる。健やかな若者の匂いがするし、その魅力が非常に大きい。そしてひとりの発信者であるが故の言い切れるストレートさがある。自分はどらマジにしろフォトドラムにしろ、こういう印象のものをやりたかったができなかったという面がある。若者を起用しても、結局は自分の枠から出られなかったのだろう。ある意味ドラムを始めて30年、記事を書いて15年も経とうとしているのだから、そりゃあジェネレーションギャップもあるんだけど。

     そして枠組みというものの変化が来ているなとも思う。自分はドラマガの中では異端というか、最初の特集からかなり好きなようにやらせてもらった。もちろん企画テーマを明示して構成も見せて了承を得てはいたけれども、大勢が関わる雑誌の中で、独自路線を出すというのはちょっと神経使うし賛否両論が出る。どのベクトルならばストレートに言い切れるのか、これは書くときの一番重要なポイントになると思っているけれども、それでもなるべく普遍的に納得させなくてはという強迫観念によって言葉が過ぎたり、リスクの多いことは見せ方を変えるなど、ストレートになりきれないところもある。それはやはり枠が変わったほうが早いのだとも思う。

     もちろんM.Nというのはもはや著名人&バンド活動あっての牽引力も含めてパワーがあるわけだけれど、すごく嬉しいと思うのは、今まで多数の人間と企業の絡みが集まってできていたメディアが、今では逆に身動きが取れにくいような状況において、営業的な障壁からいったん逃れ、単独の人間のコンセプトに絞りきって、そこに異種ながら同様な方向性と実績を持つ人間が参画するという形によってパワーを感じさせているということかもしれない。それはいみじくも赤本が見せたひとつの形態であるとも感じている。ひとりのコンセプトだけれど、ひとりではない。ある意味では偏ったやり方の中で、普遍的な発言としてパワーを炸裂させることができたのは、やはりバランスの取り方なのだと思われる。そういう意味で、村田氏の方法論はまたしても功を奏しているし、実態として形に見えないものながらも、こうして作品のエネルギーとして実在している。彼はまたしてもなにかやったのだなと思う。そしてこういうモノ作りが人々に力を感じさせるということはとても嬉しい。

     そして、原初的駆動エネルギーとしてのM.Nのプロデュースの才覚はこれからさらに出てくるのだろう。多くの人を観察し、その中に自分を置いている彼のやり方が、この作品を独断的でも独善的でも独尊的でも無い、ドラマーへ大きく開かれた入り口と感じさせている。とはいえこうしたことはかなり孤独な作業である筈で、赤本は孤独に負けたオヤジの皮肉も混ざっているが、この作品はそうして面は微塵もなくすこぶる優良だ(笑)今回、赤本や最初の連載などちょっと読み返してみたが、当時のものはまだあまり皮肉はなかったので、これはどうやら最近身についてしまった加齢臭みたいなものだろう。これはもう書き手の性格の違いであって、自分の撚た性格を修正する良い勉強とさせてもらうことにしよう。

     自分としては、この作品を鑑賞しながら当時を懐かしむという、やわらかな一日を授かったわけではあるが、あの当時手探りだったものを読んで何かを感じてくれたと語ってくれる人が、こうして良い作品を作ってくれているのであれば、それはもう失敗作として肥やしになる運命としてでも、臆せず手探りするしかないと思うのだな。ま、ある程度形が決まっちゃうとあとはつまらなくなっちゃうという自分の性格もあるので、手探りするくらいが楽しいというのもあるのだけれど。このところ、伝えることに限界みたいなものを感じていたというか、なにか負けてしまいがちだったのだけれど、あぁこれで良かったんだと思えたのは本当に嬉しい。


     ひとつ前の日記で中学生レベルの文句を垂れているが、まぁ実際のところそんな気持ちが続く中、ひとつ気持ちの良いこともあったということで、仕事しますハイ。